共感の壁

「共感」と
「受容」「許容」

最近の僕のブログでは
意図することなく、
どういうわけか
ちょっとしたテーマとなっているようです。

おそらく、今の社会にとって
とても重要なテーマを含んでいるのでしょう。

これらの中でもとりわけ
今、重要と感じるのはやはり
「共感」かもしれません。

なぜなら、
今のこの病んだ人間社会、人間文明、
多様化していく割には偏重される価値観、
これらに対して
唯一の癒しと解決の道を示唆できるものは
「共感」しかないからです。

癒しは共感から始まると
言い切ってもいいくらいに。

以前に似たようなこととして書いたのが
「知ること」の意味について。

これも要は「共感」の一つのです。

しかしここで一つの壁が現れます。

「共感」は「共感できないものについて」も
知り、「共感」する必要がある、
という壁。

わかりやすく言うなら、
自分にとって「悪」と感じるもの、
あるいは「敵」と認識するものをも
理解し、赦せという意味ですし、
それは排除することでは適わないのだ
ということであるのだから、
この概念の実践というものは
キリスト級(宗教的な意味ではなく)の
難度を誇る認識でもあるのです。
これが壁。

人類はこの壁を越えられないから、
その応急措置として
ルールを作ったり、
別の価値をすげ替えで刷り込ませて納得させたり、
時には力によって屈服させたり、
そうすることによって
「共感」からは構築できない社会を
ごまかしながら運用してきたのですが、
結局は成功した試しがないのです。

唯一残された試みこそが
「共感」であるし、
受容や許容もまたその領域にあるものなのです。

そして何故この「共感」が
僕にとって重要と感じるかについて考えるに、
やはり今の時代にあって
少なくとも日本人を見る限り、
「心の壁」をどんどん
高く、そして厚くしていく傾向があって、
それを僕自身が危ういと感じるのだからでしょう。

人は『一人だけの個別の存在ではない』のです。
本当にたった一人になるということは
死に等しいです。
いや、死以上の死です。

これ以上、生きながらに死んだ人間が増えたら
恐ろしいことになるという危惧です。

自身の存在を実存足らしめるには
相対的に他者が必要であり、
そこで生じた感性のネットワークが
第三者へと拡大していくことが
「共感」の行き着く先です。

故にこの世には
「自分以外の存在」があるのです。

この意味がわかるでしょうか。

自分と自分以外の別のものとを合わせて
世界が成り立ち、
その成り立った世界というものが
自分のそのものであると
「感ずる」能力を獲得して
ようやく人、つまり
「自分は自分である」ということを
知り得るに至り、
「この世は自分の認識でできている」と
悟ることができるのです。

「共感」してみろ。
ありとあらゆるものに。

それが自分なのだから。
それが世界なのだから。
そしてそこには
宇宙のそのものが見えてくるはずなのだから。

何ものでもない、
自分のことなのだから。

この彼岸まで到達できないうちは、
この世の中に
悩ましい存在は絶えることはないのでしょう。