優しさとは共感である

人というものは得てして
労苦を避けたがるものです。
あるいは
ストレスを避けようとする
とも言えるでしょうか。

そもそも現代の文明社会自体、
そういう労苦やストレスを
排除、克服するために
発展してきた部分もあり、
そういう点で見れば
人類の障壁は
人類の発展の原動力となったと
言えるのだと思います。

何もかもが容易くなっていく世の中。
そこは「苦」の無い世界。

整然とシステム化した社会は
人が「苦」と感じるものを
社会の表層から見えないように幕をして、
その幕の裏側で
それが人の「苦」とならないよう
人為的に調整される世界。

これが現代社会なのでしょう。

やがて人は
挫折の苦しみを忘れるでしょう。
やがて人が
何かを失う悲しみを忘れるでしょう。
それどころか、
全てがあつらえられたこの社会においては
何かを得る喜びさえ忘れることでしょう。

そしてやがて、人の精神は
何にも同情できなくなっていくのでしょう。
精神が他者に同情できなくなると、
自分の存在さえも疑わしくなってくるもの。

こういう世の中にあって、
誰かが悲しむとき、
誰かが傷つくとき、
誰かが何かを勝ち得るとき、
そのときに、それを称える言葉もまた
消えていくのだと思います。

何故なら、
誰もが慰めることを知らず、
誰もが癒すことを知らず、
誰もが労わることを知らないからです。
知らないから「同情の念」が希薄になっていくのです。

呼びかけても
返ってくるものの無い世界。

果たして、
何の不自由も障壁も、身の危険さえも
排除されゆこうとする世界において、
悲しみや痛みや労苦が無くなることで
人は本当に平和になったと言えるのでしょうか。
あるいは、
人はそれでも成長できるものなのでしょうか。

思うに人は、
傷つき、失い、苦しむことを知り、
あるいは人の業さえをもその身に受けて
初めて
それらを癒し、慰め、労い、
あるいは人の業さえも赦すという
人の精神をさらなる高尚なものへと
成長させることができるもの
なのではないでしょうか。
浅ましいだけの世俗は
それでも平和だと言い切れるのでしょうか。

傷つかない人が
慰め方を知るはずがありません。
失わない人は
人を慰める「自分の言葉」を持たないでしょう。
苦しまない人には
今、ここに苦しむ他者の価値を見出すことはできません。
そして罪を犯さない人は
この世に存在する「人の悲しみ」を
受け止める力を持てません。

例えば、
「人は悲しむことで優しくなれる」
という言葉がありますが、
これは真理を正確に捉えてはいないと思います。

人は悲しむことで、
「悲しい情動」という感受性を獲得し、
それが同情の念となって、
あえて口に出してまでする
どこからか持ってきて取って付けたような
慰めの言葉を発しなくとも、
その人の生き方、振る舞い
そのものが癒しの具現たり得るのもの
だと思うのです。

真の優しさというものは
「特別に何かを為してあげる」
こととはまた違い、
おそらく、
「この人は自分の悲しみを分かってくれている」
という確信を暗黙のうちに抱かせてくれるそれが
結果として
「優しさ」と捉えられたりもするのでしょう。

故に
人として生きている以上、
傷つこう。
哀しもう。
苦しもう。
今、目の前にある底なしの闇の穴の中へ
身を投じる勇気のない奴は、
愛だの慰めだのを軽々しく口に出すな。
価値が下がるから。

共感こそが唯一無二の
心の浄化なのですから。

そして、それができる人は
おそらく必ずしも
優しい人ではないでしょう。
むしろ厳しいかもしれない。

けれど本当に優しい。