フィロソフィア

太古のギリシア哲学というものは
西洋文明にとどまらず
東洋にも影響し、
そして、今日の文明社会の
普遍的かつ基礎的なコンセプトとして
確かに存在するにもかかわらず、
そこを深く知らないまま
やれ学問だの、
やれ科学だのを追求し、
明らかに本質を欠き、
遠ざかったしまっています。

そういう中にあって、
その、今要求されている学問や科学が
なぜ、そこにあるのか、
ここを今一度問いただす必要があるように感じます。

学問というのは、
就職するためにあるのではないでしょ。
科学というのは
お金儲けのためだけにあるのではないでしょ。

では、そうしたものは
元々、なんだったのかと問われる
行着き先にギリシア哲学があり、
人類のもっとも最初の問いは

「これは何?(アルケー)」

というたったそれだけの疑問から始まっているのです。

一応、今のところ、
哲学者というステータスを与えられている
最古の人は
ギリシアのソクラテスで、
およそ哲学というものは
ソクラテス以前と以後に分けられると思いますが、
そういう節目をになったソクラテスの
弟子であるプラトンは
「イデア論」という概念を唱えました。

「イデア論」に関しては
僕が説明するよりwikiで
調べた方が正確に理解してもらえるでしょうから、
多くは説明しませんが、
要するに「イデア論」とは
目に見える「現象界」と
目に見えない「イデア界」に分別され、
我々の目に見える物質的な認識や体験は
はじめに「イデア界」にあって、
それが「現象界」に転写される、
という考え方です。

荒唐無稽なようですが、
これを否定する証拠を持たないまま
人類は2000年もの間、
この世の中の成り立ちの根幹部分に関して
答えを持たないまま、
とりあえず、そういうのならそうなのだろうと
言わずのがなに「見做しておいて」
「分かる部分」や「得する部分」だけを
追い求めて、
今の資本主義社会が存在していると
言ってもいいと思います。

けれど元をたどれば、
学校の勉強だって、
「なぜをそれを知る必要があるのか」
という部分に関しては、
そのルーツはギリシア哲学の影響は
相当に受けているはずなのですが、
そのようなこと、
当の公務員教師ですら、ほとんど知る人はいないでしょう。

この社会において、
それを知ってどうなるという
話でもありますし。

僕からすれば、
哲学にまで踏み込めない学問など、
ただの脳トレやトリビアに過ぎません。

それができてどうなるかといえば、
結局、社会の隷属になることには
変わらないのでしょうにと。

せいぜい、質のいい奴隷には
少しだけ分け前を増しやしてもらえる、
その程度のものなのでしょう。

これが社会。

それは重々承知していますが、
かといってその社会が
正しいかといえば、
必ずしも正しいとは言えないとも思えるのです。

なぜ正しくないことがわかるのか。

それは人類の学問(およそ西洋的な)は
太古にギリシアや地中海、あたりで
そのルーツが発祥したにもかかわらず、
肝心のルーツ、つまり
「知ることの目的」に関してh
すっかり忘れてしまい、
ともすれば
生き残るための武装とさえ
捉えられるようなものに、
その本質は原型をとどめないものと
なってしまったから。

つまりは、
今教えられている学問というものは、
実質的に正しいことを述べてはいるのでしょうが、
本質的にも正しいことは
教えていないのだということです。

簡単に言うなら、
人類は2000年間、
勉強の仕方を間違えてきた
とでも言えるのかもしれません。

科学や技術は学問によって発展しましたが、
人類が2000年間、全く手をつけてこなかったのが
「なぜ学ぶのか」という哲学の部分。

これは「イデア論」で言うところの、
現象界ばかりを見ているだけで
2000年間「イデア界」について
普遍的に考えようとした人など
ほとんどいなかった、
ということを意味します。

人類は「イデア界」を
軽んじてきたというより、
そういうものの存在について、
つまり形而上、想像上のものについて
あまり深く考えてこなかった
という「イデア」が、
そのまま「現象界」に現れているのが
この社会なのでしょう。