傷つくということ。

至極当たり前のことではありますが
それは誰しも、
傷ついたその瞬間は
決して心地良いものではないどころか、
辛い思いをするから
心に傷を負うものです。

しかしこれは「悪」ではないし、
むしろ傷を避けて通ることこそ
「悪」であるのでしょう。

人にとって、心が傷つくような
ストレスというものは、
大局的に見れば
それは大きな心の進化をもたらすものです。
たとえ、それこそ
命の危機さえ感じることであったとしても、
ともすれば尚更にそれは
心に進化をもたらすでしょう。

いわば、
心に傷を伴うような辛い現実
というものは、
心を磨くヤスリのようなもの。

いびつな部分を削ることによって伴う
エゴの痛みなのだと思います。

心傷つく本人からすれば
とても残酷な物言いとなるのですが、
そもそも、
心の痛みの本質は
自分のエゴに由来するものです。
ほぼ、全てがそうであると言ってもいいほどに。

ならば、心の痛みを乗り越えるために
人は何事に対しても
無関心、無感覚であれというのかといえば、
それは違います。

むしろ傷つくことによってしか
獲得できない「共感」を
育てることのために、
人は傷つくのではないでしょうか。

ヤスリをかけるように
無数に、際限なく傷ついて、
心は最終的に鏡や水晶のように
磨かれていくのです。
心を歪めていたエゴを削り剥がすことによって。

そうして心から一切の曇りが亡くなった時、
痛みや悲しみさえも
透過できる感性を身につけるのだと思います。

やがて自分を通り過ぎる悲しみは、
完全に透明な自分の内側を通して
通り過ぎていくでしょう。

決して痛みや悲しみが無くなったわけではなく、
ただ通り過ぎていくものとして
捕らわれなくなっていくものなのかもしれません。

そしてそれが赦しへとつながり、
その振る舞いは
自身の外的世界に小さな波となって
広がっていくのでしょう。

傷つくということは、
己を磨き、その結果として
他者をも癒す能力、感性を
与えてくれるものなのです。

そう思えばきっと、
今自分が負っている傷についても
心穏やかに赦せるようになるのではないでしょうか。

傷の深さの分だけ、
奥行きのある心を持った人であるのだから、
人の傷の深さの分だけ、
人は優しくもなれるのでしょう。