デジタルコンテンツと細胞

今の音楽や映像、
そしてゲームというものは
原理としてはいくらでも
完全に違わないコピーの作ることができる、
いわゆる
デジタルコンテンツと呼ばれるものの一つです。

音楽産業が破綻の一途をたどっている要因として
デジタルコピーによる海賊行為も挙げられます。
全く同じものが
無料で手に入るのであれば、
誰もが無料の方からリソースを得ようとするのは
当然の心理です。

その一方で、
画家の描いた名画のオリジナルなどは
ともすれば数億円という額で
取引されていたりします。

どういうことか。

結局、コピーに市場価値はないのです。
言い換えれば、
大量生産品でさえコピーにあたります。
故に大量生産品は(存在の価値として)廉価なのです。

唯一無二のものに
『価値を見出した時』、
その価値はとことんまで上がるのでしょう。
唯一無二のものが
二つも三つもあったら、
その価値は半分、三分の一以上に
下がってしまうものです。

そして今、
人の細胞や胚も
同一のコピーの取れる時代に
入りつつあります。

遺伝子とデジタルコンテンツ。

比較するにも違いすぎて
引き合いにさえならない、
と一蹴してしまうのは
浅はかなことだと考えます。

大量に同一のコピーを作ることのできる
もの、技術を獲得し、
それが「資本」と結びつくことで
「生命のしくみ」までが
市場原理の奔流に呑み込まれていく可能性があるのです。

遺伝子、細胞などのコピーを
人体に適応する安全性、倫理性云々以前に、
こうした技術が
市場原理によって開発され、
運営されていくこと自体、
『生命の発現の根本的な理念を脅かす』
ものだと思えます。

幸い、まだそういう脅威を
人類は体験はしていませんが、
遺伝子(細胞、胚)そのものや
それらの操作が
商品として横行し始めると、
今、デジタルコンテンツの価値が
みるみる低下していく、その轍を、
人類自らが、
自らの細胞が
踏むこととなるのでしょう。

同一のものを創生するということは、
資本主義社会にとっては
効率の良いことなのでしょうが、
実は人類自らの首を絞めていることでもあるのでしょう。

これは自然の法に逆らう行為です。

『全く同一のものが存在しない』
ということ、
そして、
『固体の差異がそのものの価値を約束している』
ということ。

これは真理だと思うのです。