この世の美しさ

「愛することの対義語は無関心」
という言葉がありますが、
最近例の如しでよく言うように、
共感することや知ることというものは
「愛する」という力なのです。

ともすれば
力学的で流動的なエネルギーでもあるのかもしれない。

関心がないということは、
それすなわち、
それに対しての「愛の通り道」が
ないと言うことでもあるのでしょう。

本当は、人が認識できるものの
全ては自分の心次第で
いくらでもその「愛の通り道」を
作ることができるのです。

生きている中で
より多くの愛の通り道を作った人というものは、
いわば、より多くの
愛というエネルギーの
流れを通した人でも
あるのでしょう。

言い換えれば、
それほどに大きな世界を
創造したとも言えるかもしれません。

認識するもの全てに
愛の通り道ができるのであれば、
この世界は愛に満ち満ちていることになります。
それはつまり、
全てに共感し、知っている状態のことです。

この世界に張り巡らされた血管のように、
共感という愛が巡っている。

愛は自分自身の認識の全てを統合しますが、
最終的にそれは究極の問いを投げかけてきます。

「存在するべきか、
存在せざるべきか」
と。

人は死を心底意識した時、
この世のありとあらゆるものが
美しく、また尊いものに見えるものなのです。
それを垣間見る時というのは
実際に人は、生死の狭間を
さまよっているのだと思います。

「認識の全否定」の極致に
「認識の全肯定」が待っているのです。

それは「死」という最終的な全否定が
肯定されたことによって、
一切の否定が全て肯定のうちにあったことを
認識するメカニズムであり、
そして、
この世の構造そのもの自体が
肯定と否定が融合してできたものであり、
それを把握しようと
肯定と否定をより分けるために
人の生というものはあるのかもしれない、
そう理解するに至るものなのでしょう。

最終的には、
否定すべきものが存在する意味をも肯定し、
かつて死を望んだ時のこの世の美しさを
取り戻した時、
そこから本当の生が始まるのかもしれません。