隷属にも非はある

ここ数年、
いわゆるブラック企業だとか言われて
社員、従業員の人権が軽んじられるほどの
待遇を受けると、
何かとそれが糾弾の的になったりするものですが、
あえて言うなら、
雇われる人間もまた
文句を言うなら奴隷になるなよ、
と思ったりもします。
お前らが奴隷に成り下がるから
会社も調子にのるんだと、と。

一応、これは極論です、
とオブラートには包んでおこう・・・。

労働基準法が暗に破綻しかけているという
仮定に基づいているのであれば、
雇う会社にしてみたら、
お金が無いんでしょ?
お金が欲しけりゃ言うこと聞けよという
論理は別に間違ってはいないと思います。

雇ってもらう立場の人も、
背に腹を変えられない状況ともなれば、
雇用主の無理難題にも
甘んじなければならないものです。

実はこういう構図と、そこにある
人の尊厳に関わる問題というものは、
資本社会の黎明から存在しているのです。

事業主と奴隷という関係構造は、
奴隷が従業員と呼ばれるようになり、
立場が向上したものの(もちろん大きな躍進ですが)
そもそも何一つ変わってはいないのです。

現代で言われる、「ブラックな雇用形態」は
不景気とテクノロジーの進歩によって
職をあぶれる人が出てきたために
必然的に浮き彫りとなったものであって、
これは社会問題というよりは
上述のように
資本主義、事業主、そして雇用というものの
在り方の問題という気がします。

そもそも、
『人が人らしく尊厳を持って暮らす』
これが最優先されるべきであるのなら、
今の資本主義制度は
明らかにその機会を奪うシステムです。
資本主義は明らかに
『人の価値の不均衡を生むシステム』です。
ついでに言えば、
一度勝ったものは勝ち続け、
一度負けたものは負け続けるようにできています。
そして多くの人は、その人生において
「勝ち負けのジャッジを仰ぐ」
そのチャンスさえ巡ってはこないのでしょう。
それが資本主義の実態。

かといって共産主義を正しく扱えるほど
人間は賢くはできてはいません。

要するに何が言いたいかといえば、
不便を承知で
一定の枠の中に収まって
安定を得ようとする行動は
隷属の精神であり、
この行動が事業主を
不必要に肥えさせる要因となっているのだ
ということ。
そして、そういう仕組みの頂点に
「国家」が存在しているのだということ。

さらに言ってしまえば、
そもそも国家がしているこというのは、
事業主と従業員の関係構造と同様に
事業主を隷属として運用しているのだということ。
そして、
『自然の法によってのみ秩序足らしめているはずの無秩序』に
勝手な敷居は壁や道を作って
それをさも「真理の秩序」であるかのように
万物を制したかのように驕る
「人の業」そのものが
ここに権化として発露しているのだということ。

以前も言及しましたが、
故に結局、
この世は「人のエゴによって」できている
というわけなのです。