教師像

「なんだ、学校の先生というのは
賢いから勉強を教えているんじゃなくて、
マニュアル(教科書)に書いてある事を
ただ読んでるだけで、
子供に何も教えない人なんだ」

僕がそう思うに至ったのは
小学5年生とかそれくらいの事でした。

まあ確かに、
教科書に書いてある以外の事を教えたり、
変に燃えてしまって思想や哲学的なものまで
子供に偏って教えようとする方が問題ですし、
教科書に書かれている事を
なぞらえて子供に覚え込ませて、
どれだけ覚えさせたかで仕事の評価の決まる
職業なのだろうと思うので、
それは大人の目で見れば
まあ仕方の無い事なのかも知れませんが、
少なくとも小学生の僕は
教師と言うものは
特に人の上になってものを教える資格、
ここで言うのは国家資格とかそういう意味での資格ではなく、
素養としての資格など無くても、
自分は教師であり子供に勉強を教えていると
簡単に言えてしまう仕事なのだろうなと
子供ながらにそう思いました。

言葉は悪いですが
「おまえなぞに調教されるいわれなど無いわ!」
そう思った僕は
明らかにかわいくない子供だったのでしょう。

けれど、そう思うに至ってしまってはもう
勉強するのが馬鹿らしく思えて
勉強などしなくなりました。
まあその結果がこれなのですが・・・(笑)

学校の先生というのは、
テストで○(まる)を付けられるような事は
教えこそすれ、
世の真理というものに関して
教えてはくれないし、
所詮学校の先生レベルでは
そんなものについて気にする暇があったら、
いかに授業の進行をリーティンに収めるかを
考えるものなのでしょう。

先にも触れたように、
たしかに教育に特定の思想や哲学を
混入してはならないのは分かりますが、
それは教「師」ではない。
師ではないと思います。

おそらく正確に言えば、
社会の人柱を育成する「教官」
なのだと思います。

勉強を教えるスキルだけで言うなら
それこそ塾の講師の方が
よっぽどプロですし、
ならば倫理はと言えば
それを正しく実践して説く事の出来る
教官など一握りいるかいないかなのではないでしょうか。

まして、尊敬に値する人である事とは
別の評価基準を要するのだと思います。

教師と言えど人間です。
それも平々凡々な。
人としての尊厳という意味では
教師も教わる子供も等価なのです。

尊厳としては教え子と等価だとした時、
塾の講師より教えるのが下手、
かつ高尚な倫理の実践者でもない。
しかし教員免許を持って
教鞭をとる人がいます。

こういう人に
何故教鞭をとるのかと問えば、
仕事だし、それをしないと生活が出来ないから
と答えるのかも知れません。

それはきっと戦後の学校教育、
特にここ30年、40年というのは
そう答えそうな人にも
教員免許を与えてきました。

これはもしかすると間違いだったのではないかと思います。

何故なら、僕のようなひねくれた子供は
普通の感性、感覚を持った平凡な先生では
手に負えないからです。

役人と同義の教師には
幼い精神を教育するのは不可能であると断言します。
まして今の時代、
価値観もライフスタイルも経済も、何もかもが
多様化しすぎて、
パーソナリティに合わせた
理にかなった教育というものを、
1人の教師が数10人に対して
画一的に教育を施すなど、もう無理だと思うのです。

かと言って、ならどういう教育の在り方が
今の時代に必要なのかと問われても、
僕自身ビジョンは見えてきません。

しかし、初等から中等教育くらいまでの期間の
教育の在り方を根本から変えないと、
今まで通りの暗記作業と
歪んだ競争を生む素地が堆積していくだけだと思うのです。

それでもやがて子供が大人になり、
立派に大人になるのであれば良いのでしょうが、
現実、日本の教育は
日本人を大人にさせる事に失敗しています。

それ故に僕も、漠然とながら未だに
「先生の言う事ばかり聞いていると、かえって馬鹿になるよ」
と言わざるを得なかったりします。


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