神は外気に当てられて死ぬ

つまるところ簡単に言えば、
神様というものは人にとって
「良いもの全般」の総称なのです。

それはどういう意味を持つかと言うと、
人それぞれの内的な世界観の中で
共通して良いものと感じられる
形而上にある存在を、
形而下に設定して
多くの人のコンセンサスとする意味であって、
一定の集団の共通認識を具現化した
言わばアイコン(偶像)であるのです。

そう考えていくと
世の中には実に多くの神が存在していると言えます。

例えば今の日本であれば、
それこそアイドルや、ゆるキャラと言ったものも
神と等価、あるいは神の定義とその機能と
およそ同種のものであると言えなくもないです。

良いと言うのだから、それはそれで結構です。

しかし人は、自分の内的領域の中に
概念として存在していた「良いもの」が
形而下、つまり外的空間に具現してしまうと、
あたかもそれが実在するように感じるようになり、
いや、確かにそれは実在するのでしょうが、
その実在は意味を自分が与えたものであるはずなのに
どこか外部からやってきた存在として
実在を感じるようになる事で、
それを崇めるようになるものなのです。

そして崇める事によって、
概念による心象有りきであった筈の
主観的なそれが絶対的な観念に変わるのです。

こうなった時、
元々は「良いもの」であったはずのそれが
「悪いもの」に変わると思うのです。

外的なコンセンサスとしての
絶対的な観念は
強制力を持ち始めるからです。

強制力を持ち始めると
その制約が多様性の芽を摘むのです。

かくて神は
本来の在り所から外へ引っ張り出され、
本来の姿は脚色され
その似つかぬ神に本来の神は殺されるのでしょう。

そう突き詰めるとそもそも、
神という概念自体が
うさん臭いのかも知れません。

本来、人が神と呼ぶそれは
神などではなく、
原初では単純に「良いもの」であった筈なのです。

担ぎ出される「良いもの」が
本質から離れていくのは、
もとより、「良いもの」とは
外側には存在し得ないからであり、
それは即ち外側にあるものは
「良いもの」に似てはいても
本物ではない事を意味します。

故に、自分の外側で神様に出会った時というのは、

まして、自分以外の人が
それを神と呼んだら
間違いなくそれは影であり、偽物なのです。
それの存在を信じてはいけません。

本物は自分が「良いと信じるもの」
まぎれも無くそれの事なのだと思うのです。


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