秩序が自由を奪う

この世界では
個人が個人の幸せを追求する権利を
有していると謳いながらも、
実は個としての幸せなど
一切与えられず、
それを願う自由さえ与えられていません。

個が個の幸せを追求することを
自己責任において許される論理が、
個を追求する者を
集団から乖離させ、
その群れの中に属することをさせない。

ゆえにこの世界は
個としての幸せを享受することが
許されないのです。

公的な幸せこそが
人類共通の幸福であるという考えは
本当のところ、
人類の悪しき刷り込みなのでしょう。

公的に共有できる幸せを
普遍たらしめるために
個的な幸せは削られるのです。
削らない者は
公的な幸せの輪の中には入れません。

よくよく考えてみれば
本当にそれが幸せなのかも怪しい幸せのために、
社会の中の集団を生きるために
そこに生きる個人は
すべからく自分の幸せを削って生きている。

それがこの世界。
幸福の不在たる世界。

個の幸福を全うさせないのは
社会という集団の掟で、
本当はそこから解脱して
いかなければならないのでしょうが、
誰にとっても幸福というものは
どこか欠けているものであることを
当たり前だと思ってしまう。
けれどそれは
集団という見えざるものに
ただ自身の力を奪われているだけだということに
誰もが気付けないのです。
なぜなら、その奪う力に
抗おうとする力さえもを奪ってしまうから。

そう。この世界に存在する社会というものは
『この力を奪う世界』なのです。

それがこの世界の本質なのですから、
もし今、幸福を感じているとすれば
別のどこかで、同じ事柄について
思い悩み、泣いている人がいるでしょう。
ともすれば、その幸せは
誰かから奪ったものかもしれません。

そこに思いが及んだ時に
自身の幸福が欠けていることに気づくのです。

そして辺りを見回し、
誰もが幸せを欠いたまま過ごしていることに
卒倒するのでしょう。

なぜこれが看過されてしまうのか。

結局それは、この社会そのもの自体が
「個」から奪うことで
秩序を保っているからなのです。