運命の人は探しても見つからない

実際に生きていると、
ビビッと「この人だ」と直感する人に出会うものです。

往々にして、そういう直感は正しいもので
信じるに足る確信なのだろうと
経験則的に考えても思えます。

ただ、人生に於いて
そういうビビッとくる感覚を体験しないまま
生涯を終えてしまう人もいます。

この差はひとえに、ただただ
人の持つインスピレーションを受け取る感性が
澄んでいるか否かなのだと思えます。

端的に言うなら、
心が澄んでいないと
そのビビッとくる感覚も見逃してしまうということ。

問題はここからで、
心が澄んでいたが故に受け取ることのできた
そのビビッときた感覚も、
それが真の愛だと、
あるいは運命の恋だと
確信するに至った途端、
心が渇望し濁ってしまうと
せっかくのビビッときた想いも
成就が叶わなくなってしまうのです。

人生、ビビッとくる人に出会う事があるとは言っても、
人生の中ではたった数回しかありません。

故にそういう稀なハプニング、チャンスを
叶えることができた人は
幸せなのでしょう。
けれどその幸せも
心に美しさを保つことができなければ
すぐに壊れてしまうとも思えます。

そのビビッときた感覚とは、
実は自身の愛がもっとも純粋に共鳴したとこで
認識できるものであるのです。

だから、
追うほどにその共鳴は乱れ、
コントロールしようとするほどに
制御ができなくなるのでしょう。

運命の人は追うほどに遠ざかるし、
そもそも本質は、その他者たる運命の人に
あるわけではなく、
どこまでも自分の内奥に発現する愛に
いかに純粋に向き合えたか、
その一点のみが問われるのでしょう。

追わなくても本当はいつもそこにいるのに、
いないと思い込んで悲しい想いを繰り返し、
いつしか人は愛、ないし恋の本質を
すっかり忘れてしまうのでしょう。

ゆえに運命の人というものは
探す質のものではないのです。