心は身軽なほど良い

人間、生きていくほどに
いろいろな事を
身に付けていくものです。
歩く事さえ出来なかった赤ちゃんが
歩く事を覚え、しゃべる事を覚え、
書く事を覚え・・・、
親という概念を覚え、家族という概念を覚え、
そして社会という概念を覚えていく。
そうして積もり積もった
現状の結果が、今現在の自分自身なのです。
歳をとると、大人になると
いろいろな事を身に付けます。
子供には出来ない様々な事が
出来るようになります。
しかし、それは果たして
自由を得たと言えるのでしょうか。
思うに、
何も持たなかった幼い頃の方が
自由だったと感じます。
大人は自由ではありません。
むしろ、ありとあらゆる足かせに
身動きが取れなくなるのが
「ごく普通」の大人なのでしょう。
物事を動かす「実権」を得るために、
自ら「規則」や「責任」、「義務」という
重石で自らの人生を
重いものにしてしまう。
それが大人というものであるし、
その「重み」という重力こそ
地に足のついた人生の重力である、
そう言う人もいるでしょう。
いや、ほとんどの大人が
人生はそういうものだと規定しています。
「何も持たず自由でいる大人」を
軽蔑さえしています。
もちろん、
人生の重みに心地良く感じる人は
いるでしょうし、否定もしません。
しかし、社会の底に沈殿する事を望まず、
ふわふわと漂っている事に
幸せを感じる価値観を嗤う理由などありませんし、
「人生の重み」という重力で
そうした「漂う人間」を
底に沈めようとするのもまた
何かが違うように感じます。
本当の自由というものは、
排除すべき何者かの存在が
全て無くなったその先にあると思うのです。
「力」と「自由」は全く
性質の異なるものです。
「力」で「自由」を得ようとすると
必ずどこかでしわ寄せが来ます。
なぜなら「力」で
半ば強引に引き寄せた自由だからです。
真の「自由さ」に力は必要ないのです。
ただ、あるがままである事を
認め、自信を持って愛すれば、
誰がなんと言おうともそれは
「自由」なのです。
そしてそうした在り方は、
既存の社会規範の枠を越えた
人の本質であるのでしょう。
しかしそうした
人の本質たる生き方が出来る人は
本当に少ないと思います。
それは幸いな事でもあり、
同時に孤独という幸福をも味わうでしょう。
何故なら、
全てを手にした後に
手放すべき全てを知っているから。
身に付けていくだけでは
どんどん精神は重くなって下へ沈んでいきます。
その重みを手放した反動で
精神は昇華されていくのだと思うのです。
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