視野

視野狭窄という言葉があります。
ものの見方が偏り過ぎ、かつ
自身の考え方以外のものは受け入れない、
そういう感じの意味合いと僕は理解しています。
まあ、僕のブログのような内容のものを書く人は、
他人からすれば、僕もまた
視野狭窄の輩と映る人もいるのだと思います。
それはそれで、
そう思うならそう思えばいいだけの事ですが、
実はこの「視野狭窄」と嗤うその感性自体が、
ある意味「視野狭窄」に陥っているからこその
感覚だったりするのです。
何故なら、所詮人間は
自身のの色眼鏡越しにしか
世の中を見る事が出来ないから。
どれだけ心大らかに、寛容な理解力を持とうが、
自分という認識の枠の外側からものを見る事は
できないのです。
視野の広さというものに絶対的評価はありません。
結局、自分の色眼鏡から導き出された
価値観を中心点にして、その視界が
どれだけの数の認知を
許容出来ているかという
ひとつの指標に過ぎないのです。
また、認知可能な物事が多ければ
それほどに良いというわけでも無いように思います。
狭い視界の世界観を生きている人は
その狭さなりの、
視界を狭くしているからこそ見える
内的世界を生きており、
より広い視視野から見える世界を生きては
体験出来ないそれが
そこにはあります。
そしてまた、逆も然り。
人生に対する認識に正解など無いように、
視野の広さの度合いに正しさも無いのです。
広かろうが狭かろうが、
自分の視野の中にあるもの「だけ」が
自分の世界なのです。
この境界を自我といいます。
いかように境界線を引くかは
その人の人生における
学びによって様々なのでしよう。
フォーカスを絞った生き方も、
広げた生き方も、
自身が観たいものに応じて好きに出来る、
それがきっと人生のルールのひとつのなのでしょう。
故に視野狭窄と嗤う者こそ、
実は自身の中の偏狭なそれを
そこに投影していると言えるのかもしれません。
正しいものというのは、
他者が決定するものではありません。
あくまで自分が能動的に
そうであると決める事であって、
きっと実際に
それがいちばん正しいのでしょう。
間違っているものなど無いのです。
あるのは、
「それが間違っていると考える事が正しい」と
考える自分の認知だけなのです。
人の内的世界を形成する枠としての視野は
「広さ」という軸を持たないのでしょう。
ただ、そういう視野の形がある、
それだけなのだと思います。
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