黄金律

思うに、
僕の「美」に対するこだわりというか、
もう偏執的な執着と
言われても言い返せないほどに、
何に対しても「美しく」ないと気が済まない
性質を僕は持っています。
よく、まあ特に男の人に多いのですが、
例えば身に付けるものなど、
機能性、実用性を重視して
見た目が多少悪くても平気な人がいますが、
僕的に言えばそれま
100%以上にありえないです。
「美しさ」を捨ててまで
便利になりたくはないです。
むしろ、その遠回りも含めた所作そのものが
美しいのだから、
わざわざ機能や実用に特化しなくても
その不便さにさえ「美」は存在します。
僕にとって「美しい」ことは
絶対です。唯一無二の一元的な価値観です(笑)
もちろんその美しさというものは、
上辺だけの取り繕った美しさなどではありません。
そのようなものを僕は
一瞬で偽りのそれか、真実のそれかを
見分けられる自信があります。
真に美しいものというものは
「本質」が美しいのです。
いくら、きらびやかに着飾っても
この「本質」だけは
絶対に隠せないし、
それに誤摩化される人の
「本質」もやはりそれなりだったりするものです。
言葉は悪いですが、
それこそ不細工な人(失礼)でも
「本質」が美しければ
それがなぜだか愛嬌になるし、
振り返りたくなるような美形でも
そこに「美しい本質」がないと
どこか冷たく感じたり、
もっと形而上的な物言いをするなら
それこそ不快な心象を感じてしまいます。
一見、合理的かつ生産的に見える物事も、
そうした論理で「無駄」と判断されたものを
取り除く事でその調和が乱れてしまう事が
多々あります。
実は「無駄を省く事」と
「理に適っている事」は
似ているようで全然違うのです。
人のエゴが無駄と判断して
省いてしまったものは
結果として美しいと感じませんが、
美しいと感じるものは
遠回りのようでも
よくよく考えると
理に適っていたりします。
これは個人の美的感覚の差を超越した
感覚だと思います。
それが僕の言う「美の絶対性」なのです。
古来より「黄金律」と呼ばれたものです。
この「美の絶対性」、「黄金律」は
心にも同様に当てはめる事が出来ます。
心が「黄金律」に近いほど、
その人の周りも
まるでそれが投影されたかのように
「黄金律」の調和が転写されていきます。
理に適うという事は、
人間の小さな自我から導き出される
小さな合理性など
軽く凌駕します。
それほどまでに強力なのです。
故に「本質」が美しい物や人は
有無を言わせず美しいのでしょう。
その絶対的、本質的な美しさこそ
この世の真理であり、
その視点で物事を見るに
自我という低いレベルでの
「奇麗」「醜い」が
いかに、その人それぞれの
思い込みに過ぎないのかが分かります。
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