模索の代償#1

僕はここで何度も書いている通り、
心を病んでいます。
しかしここでは、
僕がいかにして心を病んでいったかという事は
書いていません。
以前から、よく名前を出していた
音楽SNS、YoroZooというサイトのブログでは、
その事について
書き綴ったのですが、
そのサイトも閉鎖となり、
その記録も抹消されてしまいました。
そして今、ここアメブロで
新しくお知り合いになれた方々も
多くなってきた事から、
いま一度その、
僕がいかにして心を病んでいったのかを
自己紹介代わりと言ってはなんですが、
何回かに分けて
お話ししておこうと思います。
YoroZooでのブログですでに
その事をご覧になっていた方には
内容が多々重複する事があるかとは思いますが、
お暇ならば、僕の述懐にお付き合いください。
あと、はじめに言っておきますが、
内容は少々ヘビーです。
適当に流し読み程度にしておくのが
いいのかもしれません・・・。
では、僕がいかにして心を病んでいったのかを
お話ししましょう・・・。
これが
「鮎沢郁弥」
です。
・・・。
話しは10ほど前にまでさかのぼります。
以前のブログでも書いたように、
僕はインディでバンドをやっておりまして、
全国流通のCDを2枚出させて頂きました。
日本の各所をライブツアーで回らせて頂き、
専門の雑誌等にも広告を打ったり
インタビューなども受けたりと、
多分、今でも変わる事のない、
よくあるインディーズバンドの
するべき活動は一通りしてきました。
別に自慢で言っているのでは決してありませんが、
専門雑誌のCDレビューではかなりの好評を得た事もあり、
バンドのサウンド全般をリードしていた僕は、
その当時、かなり
うぬぼれていたというか、
自分には才能があるんだと、
天狗になっていたのは間違いありません。
今となっては、顔から火が出るくらいに
恥ずかしいお話ですが・・・。
そうやってインディでメディアに露出できるほどに
活躍できたのは、
なにも僕の才能だったわけじゃなかったんですよね。
僕がやっていたバンドを、
陰で下支えして、
さらには僕の曲作りのセンスを買って頂き、
活動のマネージメントまでもして頂いていた
いわば、恩人がいろいろと
根回しをして頂いていたからこそ、
僕たちのバンドはメディアに露出する事が出来たのです。
ただ若かった僕は、
そのことに気付けなかった・・・。
小さな世界のなかで
自分の力があってこそ
そこまで出来るようになったのだと、
大きく勘違いをしてしまっていたのです。
バンドの解散後、
僕はパソコンでの作曲をするようになります。
パソコンで作曲するという事は、
バンドでは鳴らせない音までをも駆使して
自由な曲作りが出来るので、
バンドサウンドという形態での曲作りに
行き詰まりを感じていた僕は、
あっという間に
その魅力に取り憑かれ、
そして、自由な作曲を出来る環境の中、
さらに僕は、
作曲に関しては天才的なものを持っている、
そんな風にさらに
痛い勘違いを深めていったのです。
つづく・・・。