「いのち」の摂理

XIV. Temperance・・・
今日の鮎沢ブログ、夕刊のお話は、
僕の究極的理想の生き方についてお話ししようかな、
なんて思います。
だけど最初に断っておきます。
これからお話しすることは
もう完全に夢物語のようなものです。
地に足のついていない、本当にただの理想です。
いいじゃないか、叶う事なき理想ぐらい語ってもさ。
というわけで・・・。
やっぱり僕も音楽を志す人間のはしくれ。
そりゃ、音楽「だけ」を生業にして生活できれば、
一番いいですよ。
そして、どうせなら
売れないより、売れた方がいい。
でもね、お金儲けには興味は無いんですよね。
まずは自分が、いち表現者として
表現したいことを100%表現しきる。
これが大前提。
その上で、お金がもらえれば
モアベターっていう感覚。
例えば、
仮に万に一つ僕がメジャーでバカ売れしたとしましょう。
億単位の印税が入って来たとしましょう。
じゃあ、手に入った数億円の使い道はと聞かれたら、
僕の場合、自分が普通に生活できる分だけのお金だけ貰って、
あとは、慈善事業とかに寄付するだろうな。
世界にはお金がないために、
ろくに教育も、医療も受けられない
そんな国がいっぱいあるんですよ。
そうした人たちに富を分配すればいいんですよ。
どうせ余って、使い道も無く
銀行の口座に留まってるくらいなら、
その余った分を、足りない所に回せばいい、
ただそれだけのことなのに、
世のお金持ちは何故それが出来ないのか?
あ、そうか。
富を分配するって発想が無いからお金持ちなのか。
まあ要はね、僕の場合
好きな音楽を作って唄って、
花を育てて、
暇な日の昼下がりにはのんびりと
バニラエッセンスを数滴垂らした
甘めの紅茶を飲みながら、
思想や哲学の本を読んで、
夜には
ローズウッドにラベンダーを少々ブレンドした
アロマを焚いて眠りにつく。
そしてあとは、
みんながみんな笑ってる。
それだけでいいんですよ。
とはいえ、ごく現実的に
社会の一員であるところの「男」として、
そんな生き方はどうなんだ?と問われれば
返す言葉も無いんだけれど、
いち人間として、いや、
一つの「いのち」として
この大地、この自然、この地球、この宇宙の運行に
調和した生き方をすることに
重きを置くことは、
そんなにいけないことなのか?
僕はそう思うんですよね。
僕たちひとりひとりが、
「いのち」という自然現象であると考えたとき、
自然の運行に調和した生き方をする事の方が
ものの道理だと思うんです。
そして僕という個の「いのち」は
あなたという個の「いのち」と
調和し、同調し合う事が出来るなら、
世の中から悲しみなんて消えてなくなるんじゃないか、
そんなふうに思うんです。
それどころか、
それこそが、ごくごく自然な「いのち」という現象の
在り方なんじゃないか、
そうも思うんです。
全ての個としての「いのち」が
手に手を取って調和できた時、
実は僕たちという存在は
一つの大きな根源で繋がっていた事に
気付く事が出来るのではないでしょうか?
だから、
あなたが笑っていれば、僕も嬉しい。
あなたが泣いていれば、僕も悲しい。
あなたを大切に思う事は、僕を大切に思う事。
あなたの愛は、僕の愛。
それは、いたってシンプルなこと。
それ故にこそ、もし富を得たなら分け合いたい。
「いのち」とは、
分かち合い、愛し合い、癒し合い、共有し合う、
それが本来の自然の姿なのではないかと
僕には思えてならないのです。
万物全てが一つの「いのち」として
「愛」という「ちから」を
ただ、それだけを循環させていく存在であり、
自分という「個」の存在ですらも
その循環の中のひとつの過程であることを
自覚して生きる、そんな生き方。
それでもただ愛しなさい。
それでもただ分かち合いなさい。
それでもただ今ここに存在する事に感謝しなさい。
それが自然の摂理だから。
それが「いのち」の摂理だから。
まあ、結局はあくまでも
それが地に足のついていない
理想論で終わってしまうこの世界は、
僕にとっては
ただただ悲しい世界なのです。
悲しい世界だけど、
それでもただ愛し、慈しみたいです。