もがくこと

あれは、ああだ。
これは、どうだ。
いや、そんなんじゃない、とか
そうやって「もがいているとき」に
自分の何かしらが成長しているように思えるのです。

と言っても、
それは「苦しみ」や「苦労」とは違う気もします。
自分の経験を振り返ってみても、
「苦しみ」や「苦労」と言ったものの中でも
とりわけ「嫌悪の対象」にさえなりうるような
「出来事自体」が果たして自分を強くしたかといえば、
そうではないように思えるからです。
そうした出来事、経験は
やはり後になって振り返っても
「嫌なものは嫌」ですし、
それを否応なしに肯定することが
人間性に深みを与えるとも思えません。
むしろ、
自分の「嫌悪の経験」ばかりが積み上がって
却って、心が歪んでしまうのではないかとさえ思えます。

「嫌なものは嫌」なのだから、
嫌なことを嫌々経験したところで
何ひとつ自分は伸びることはないと感じます。

往往にして人は、
まあ特に日本人は、
『苦労人を一段持ち上げたがる』ものです。
遊んでいる人間と、
苦労している人間とを比較すると
「苦労している人の方が偉いと錯覚する」のは、
もしくは逆に、遊んでいる人間を
低く見がちな価値観のことでもあるそれは、
明らかに間違いだと思えます。

現実を見るとどうか。

苦労人は必ず、必ず報われて幸せになっているのか?
結構、楽をしてひょいひょいと
贅沢な暮らしぶりをしている人だっている。

「苦労人」を礼賛する価値観からは
完全に矛盾するそういう現実を前にして、
人はその整合性を取るために、
「いやいや、実は影で苦労してる」だとか
ともすれば
「あれ、影では悪いことやってるんだぜ」だとか、
そういうことを言って、
苦労した分だけ、人生は報われると
信じて疑わない、
そういうものの考え方をする人を
散々見てきたし、
僕もかつてはそのように考えていたこともありました。

けれど、やはり
為した労苦と得られる富は
決して比例しないし、
同時に
体験した苦労と人間性の高さも
決して等価ではない。

苦労というものは
単純に苦労でしかない。
それと、
得られる富や身についた人間性の高尚さは
『全く無関係』なのだと断言できます。

誰しもが(特に日本人は)
苦労しないと高みに登っていけないと信じ込んでいますが、
これは間違いでしょう。

『苦労して浮上できる人間は稀である』のです。

ただ、
「もがくこと」つまりは
『葛藤』のことなのですが、
これについては
それが深く、あるいは強く、
そしてその数ほどに、
明らかに人の認識や解釈の幅、
そして気づき、あるいは恣意の深さ、
さらには可能性の多様性を
獲得できるように思えるのです。
平たく言えば
葛藤が人を賢くさせるのかもしれない、と。

『葛藤』とは
何が正しいのかを
深く模索する行為です。
そこに、良いも悪いもなければ、
苦楽という概念など、当然ありません。

葛藤することで
人の世界は広がるのです。

むしろ、人の世界を拡張させる
最も根源的な原動力こそ葛藤であり、
程度の大小こそあれ、
何かしらに葛藤(迷い)したうえで
導き出した答えの結果が
『人の振る舞い』として顕れるものなのでしょう。

故に、
無思慮な振る舞いの蓄積と、
葛藤の末の振る舞いのそれとでは、
振る舞いの質そのものが違うし、
当然、結果も変わってくるはずです。

けれど、
その結果からもたらされる外的な条件は
それ自体に良し悪しはなく、
そこから「何を思うか」が大切になってくる。
そこでもがくことで
叡智は積み重なっていくのではないでしょうか。

人の成長の結果、つまり叡智は
貧富の両方に存在するし、
幸不幸の両方にも存在します。
他にも相対的な概念の支配する
あらゆる内的世界にあまねく存在します。

叡智とは
『どこまでを内的世界に包含することができるか』
というところで推し量ることができるのでしょう。

それは『認識の宇宙の広さ』であって、
それは葛藤すること、つまり
「もがくこと」によって
開拓されていくものなのかもしれません。


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