心は弦

およそ人の心というものは
ある意味、楽器の弦のようなもので、
生きていく中で、
様々な心の音を出していくというのは、
それをすなわち
人生と呼ぶのかもしれません。

低い音を出したり、高い音を出したり、
あるいは複雑な美しい音色を出すこともあれば、
音の振動が乱れすぎて
音にならないまま、
弦は響かなくなってしまうことも
あるのでしょう。

自分の響きに共鳴しない、
あるいは打ち消しあうような
別の弦の音にも出会うことでしょう。

究極的な理想というのはやはり、
どんな音さえも溶け合った
完璧なハーモニーなのだろうと思うのですが、
整いすぎても単調になる。
故に、響き合わせることが難しい
存在や出来事に出くわすものでもあるのかもしれません。

最終的に人生が完成された時、
振り返って俯瞰した時、
自分の紡いできた
整った音も、濁った音も、
それらの混ざり、織り合わせたそれは
明らかに自分という唯一無二の模様になるのだろうし、
それ全体で「形」として豊かな表情を作るために
共鳴し得ないものに
想いを煩わせることさえ、
重要な要素となり得るのだろうと思えます。

「自分自身の思う音」だけで響いていられれば
楽なのでしょうが、
人生というものは時に
人の響きを乱して、自分の響きに
無理矢理に共鳴させようと考える人だって
いるのも現実です。
そして疑問を持ちます。
果たして自分の響きは正しいのか、と。

まあ、端的に言ってしまえば
それを考えるのが「人の生」なのでしょうが、
それでも最終的には
「自分の響き」で「自分の力」で
鳴らなければいけないのだろうと思うのです。

人の響きの真似ならいくらだってできるし、
そこに学ぶべきものがあるというのなら、
飽きるまで「自分ではない響き」を
鳴らしきるのも、ひとつの人生でしょう。

「人の真似をして響く音」というものは
他人の真似事であるが故に
自分以外に代わりになることのできる人は
いくらでもいるです。

けれど、自分自身の響きは
自分にしか出せないし、
自分の他に
真似をしてくれる人はいるかもしれませんが
代わりになってくれる人など存在しないのです。

故に、
自分という存在は、
『自分で在るとき、かけがえのない存在となる』のだと
思うのです。

誰に言われるまでもなく、
実は、自分が気づくよりずっと前から
自分は「自分という音」で響いているのです。

やがて自分が死したあと、
閻魔大王(のようなもの)の前に引き出されて
こう言われるのです。

『で、お前は
「自分の歌」をどこまで歌いきったのだ?』
と。

ついでに、こんなことも言うかもしれない。

『誰かに成り代わって、
その誰かの在り場所をおいやったりしなかったろうな?』
とも。

響け。自分の音で。