ヒューマニズムとしての生

人は「生の向こう側」にも
その認識としての存在が続くと
考えたほうが良いのだと思います。

自分の(もしくは人の)したことは、
永劫に残るのです。

それは昨日の「死刑は極刑か」という
話しとも関連してくるところではあるのですが、
凶悪な犯罪者のしたことは
被害者やその関連の人にとって
たとえ犯罪者が死刑になって
この世からいなくなったところで、
その傷も同時に消えてなくなりはしないのだから、
「死」によって何が終わるこということは
無いのでしょう。
消えるのは物理的な肉体という存在だけ。

もちろん、悪いことだけではありません。
善いこともまた永遠に残るのです。

これは平たく言えば、
死後の世界の話と捉えても差し支えのない話です。
人は死してもなお、人の認識は存在し続ける。

なぜ、このように考えた方がいいのか。

正しいからか?

実際、現実にそれを証明できない以上、
それは「非科学的な事」として
否定されもするでしょう。

人は死しても存在し続けるという事を
『正しかろうが、間違っていようが』、
かくの如くそうであると思った方が良いのではないか。

「人は死んだら無になる」
そう考える人も多くいます。
おそらく、前述や昨日の記事の
「死刑」についても、
「死をもって罪を償う」という思想の根底には
「死んで無に帰す」という観念が
存在するのであろうことは想像がつきます。

ここでよくよく考えてみてほしい。

『死んだら放免になる』のです。

どれだけ悪行三昧に生きてもです。

死刑にしたってそう。
『死せば許す』のが死刑なのです。

死んで無に帰すならば、
どれだけ傍若な生き方をしようが
それは正当化されてしまいます。
どれだけ人に迷惑をかけようが、
泣かせようが、怒らせようが、
騙そうが、盗もうが、殺そうが、犯そうが、
生けるものであれば、
やがて必ず訪れる「自らの死」をもって
放免されるのだから。

たった1度の死をもって放免されるのであれば、
「1度だけ死を持つ」生き物は
悪行を重ねて、最後に死というカードを切れば
それで良いはずではないでしょうか。

それどころか、
生きている間に積み重ねていく
「善行」さえ、
死によって無に帰すというのです。

さらに深く考えてみてほしい。

「1度の死をもって全ての罪は放免となる」のであれば、
『そもそも罪は存在しないことになる』はずです。
「1度に死をもって生涯をかけてなした善きことも無に帰す」
のであれば、
『人にとって善行は全くの無意味なもの』であるはずです。

いや、そこまで言ってしまったら、
人間、滅んでしまうというかもしれませんが、
滅んで放免であれば、
どれだけ自然を壊そうが、環境を汚そうが、
放射能を垂れ流そうが、
それで滅ぶのなら、すでに罪は許されているのです。

どれだけ人を愛しても、
人に優しくしても、
人のために喜んでも、
あるいは泣いても、
そのようなものは、
たった一度の死によって消し消えてしまう
無意味な行為。

これが
『死して無に帰す世界』です。
テレビゲームに喩えるなら、
好き勝手に操作して
飽きたらスイッチを切るような世界のこと。

電源を切って、自分のしたことがすべて
消えてしまうというゲームに、
そうした「ゲームの中だけの世界」に
存在の肯定を立証することは不可能です。

まともな神経の持ち主であれば
そんな修羅のような殺伐とした世界を
生きたくはないでしょう。

そんな不毛な生き方を否定する、
その抗いの発露する瞬間にこそ
ヒューマニズムが萌芽するのかもしれません。

死を無と捉えず、
死の先まで存在の認識を延長することで、
つまりは、
人は肉体が滅んだ後も、存在として
永遠に認識しうるものと
『看做して生を生きる』ことは、
自身の生の中で、自身の振る舞いに責任は
自分で全うすべきものであるという
自負を育てることとなりうるのではないかと思えるのです。

人の生き死にという概念の所在は
科学の論証を超えたところに置いておかないと、
いや、正確には生死の概念の置き場所次第で、
人の生きる世界は
天国にも地獄にもなり得るのだということ。
少なくとも、個々人の内的世界の
在り場というものは、
科学の範疇外にあるもののはずです。

人の生の健全性を保ったりするは
科学に属する事柄かもしれませんが、
「人の生死という認識論」は
科学には属さないものです。
これは「ヒューマニズム」の領域にあるもので、
科学に先立つものでもあるはずなのです。

人の為すことに
「放免」という概念はないと思えます。
と同時に、その為したことは
個人の生死というサイクルすらも超越したところで
作用することもあるかもしれません。
そのある種、「(善かれ悪かれ)人の業」とも言えるものは
そのようなサイクルを貫通して存在し、
人はそれを認識することによって
人生を(もちろん生死を超えた)
個々に知覚しているのかもしれません。

人は「生の部分」に属するのではなく、
あくまで
「生死というサイクル」を
永劫に認識し続ける、
まさに「その自分」という
全体性を指す存在であり、
生死という概念さえも
そこに属するものであるのではないかと思えます。