死刑は極刑でいいのか?

度々、ニュースなどで
「死刑廃止論」が議論されることがあります。

僕自身も、「死刑廃止」は賛成です。

けれど、人道的、あるいは人権擁護という
観点から死刑を廃止して、
刑罰の重さをダウングレードする、
という意味での「死刑廃止」に関しては
一切否定します。

そもそも、「死刑」が極刑である根拠というものが、
今の時代には乏しくなっているということもあります。

事実、
死刑になってもいい、あるいは
死刑になりたいがための
凶悪な犯罪というものも、
すでに何度か起きています。

いっそ死んでしまいたいけれどと考えた
犯罪者が凄惨な事件を犯し、
それで死刑になったところで、
その罪を犯した人間の思うがままになってしまいます。

そう。今の時代というのは
『自己の存在の重さ』が軽いのです。
故に、「死」というものは
必ずしも絶対的な「否定」ではなくなってきているのです。

そもそも、「死」の絶対性と、
それについてまわるところの
絶対的な破滅や消滅といった概念は、
『あくまで生を充分に生きてこそ』
成り立つもので、
不毛で空虚な人生にとっての死は
決して「無二の否定としての死」ではなく、
ともすれば
「永遠に目覚めなくてもいい眠り」のようなもの
とも言えるのでしょう。

こうしたことから、
少なくとも今の時代というものは、
一概に「死」というものは
人間の持ちうる概念の中にある
「最も最悪なもの」とは成り得ないのでしょう。

生が重い人にとっては、死もまた重いのでしょうが、
それが軽ければ、相対的にまた死も軽いのですから、
いかに死刑は極刑とは言い切れないかが
分かるのではないでしょうか。

実際に見聞きしたわけではないので
よくはわかりませんが、
おそらく死刑囚の中には
「死は解放」と捉えている人もいるのかもしれません。

考えてみれば、
死刑という考え方そものもが、
『生きている者のみ』の世界観の
内側からしか考えられていない罰だと感じます。

以前、自分の記事の中のどこかでもお話ししましたが、
被害者側の心情をも考えるならば、
死刑囚の死刑が執行されることによって、
その恨みが晴れるかといえば晴れないでしょう。
それどころか、死刑の執行によって
被害者は逆に
『恨むことの正当性を失った復讐者』になるだろうし、
それは新たな罪を生むことにさえなるはずです。

死刑囚が死刑になり、この世から存在を消す。
第三者的な社会に存在する事実は
「社会に生きる者たちの集団」にとっては
一件落着、「死によって終わった事件」なのでしょうが、
結局、死刑になるような事件の当事者にとっては
その事件というものは
『生き死にを超えた次元に永遠の存在し続ける』のです。

『決して悲劇は消えて無くなったわけではない』
のです。

前述の例では
被害者側の立場では
人の生死を超えた次元で存在する悲劇を、
なぜ加害者は
人の生死の部分の「生の部分の終焉」をもって
その贖罪を免れることができるというのか。

当然、加害者もまた
被害者と同様に
人の生き死にを超えた部分まで
償い切るべきであるように思えるのです。

そう考えると、
「死刑のみが極刑の唯一の選択」である
というのは、
少し見当違いであるように思えます。

人の心は複雑で、
その複雑な心が過つのが罪であるのなら、
それに対する罰もまた、
今よりもっと複雑、というより、
もっと立体的な観点で
断罪を行使すべきであるように感じます。