主観と投影

例えば心理学用語で
「投影」という考え方があります。

「投影」に関してはやはり当然
かのユングが有名ですが、
これらというものは
「学問」として体系づけられているから、
あたかも「客観的で科学的な根拠」という
無言の保証書(あるいはブランドかもしれない)を
持っているからアカデミックな領域に属するものとして
認知されるでしょうが、
その実、
こういう世界はともすれば
「浮き世は夢」的な仏教の思想にも
通じていくのだろうと思います。

人間の内的世界というものは
「暫定的に体系づけられた学問」として
学んで、人は果たしてそれで
賢く、あるいは幸せになれるのでしょうか。

こういうものに関して、
本などで学んで
「知識として」身につけるだけでは
理解したとは言い切れない世界でもあるのだろう
という気もします。

こういう世界は
『体験的に知ること』によって
獲得できる世界観なのではないかと思えるのです。

逆に言えば、
どこかしらで見聞きした知識だけで、
あれこれ論理的に、
その整合性を説いても、
全く論証の役に立たないとも言えるのです。

と言うより、人の知識が持てるところの
ロジックの整合性では、
解釈が狭過ぎて、どこかで必ず矛盾が出てくると思います。

行き着く先に論理の破綻があって、
それは間違いだったのではないかと思えるから、
人は客観性という概念を作り出したのだとも言えます。

根底の矛盾に気づきつつも
それを無かったかのようにして
社会生活を送るというのは
人間の得意技でもあります。

しかしながら、
『一切の客観性を持たない世界』というものは、
社会生活においては
『一切の現実味を持たない世界』であるということの
同義であると思いますし、
ということは、「客観」の対義である
「主観」、つまり「己自身」という存在もまた
現実味を持たない性質のものであるところに
帰納していくのでしょう。

故に実際に、内的世界の探求というものは
往々にして現実逃避の口実にも
なり得てしまう質のものだろうと思えます。

また、
内的探求を避難所としてしまう人に対して
胡散臭い宗教や、インチキくさい自己啓発が
「耳触りの良い言葉だけ」を抜き出して
それを餌に使って、食い物にしてしまうから、
余計に内的世界の探求というものは
内的世界の広がりを知らないごく普通の人から見れば
気味悪く思えたりするのもの
致し方ないのだろうという気がします。

故に、
この外的に認知しうる世界というものは
完全なる自分の主観による認識で出来上がっていて、
またその認識を投影して、
外的世界は実在を持ち始める、
こういうものの言い方をすると、
どうしても眉唾に思えてしまうものなのでしょう。

まして、「知識という意識の浅い領域」
でしか知り得ない人が語ったところで
説得力に乏しいし、
それであれば、「多くの客観」という
他者の言うことを正しいと思い込んで
深く考えない方が楽なのでしょう。

こうして大多数の声に
内なる声はかき消されて、
内的な入り口は閉ざされてしまうのです。

けれど突き詰めていけば(今回は割愛しますが)
突き詰めていくほどに、
この世には自分しかいない。

そこをしっかり理解させてくれるのは、
実は本だったり、セミナーだったりとか
そう言うものではないのです。
それどころか、一切のお金はかからないはずです。

自分が自分の
『今ここにある普通の現実』を
しっかり生きることで
『体験的に身に付いていく』ものなのです。

もちろん、ここで言う現実とは
「一切の客観性を持たない現実」の事です。

自分の主観だけを拠り所にすると言うことは、
はじめは誰でもアンバランスで、
実にいびつなパーソナリティが
潜在的にも、顕在的にも一つの
「個性による行動理念、原理」となって
外的世界で振舞うものです。

けれどそこで他者からの批判に臆して
客観性の論拠に従ってしまってはいけない。

従ってしまっても良いけれど、
客観性の論拠を信じて従うのも
あくまで、自分の主観。
従わないのも自分の主観なのです。
何をするにも主観。
客観性の立ち入る余地は
全くなかったことを知るはずです。

何れにしても、主観のみに寄って立った
アンバランスなパーソナリティは
あちこちに傾くし、
倒れるし、そこら中にぶつかるでしょう。
痛い目にも会うでしょう。
けれど
「信じて良かった」と心底思えることもある。

そうした「実体験」を重ねて
自分の主観のみで
完全なバランスを保つことができるようになること、
そしてそのバランスを外的世界において
「自分はいかに投影するのか」を模索するのが
内的な探求というのだろうし、
それはある意味、自己修練でもあるのです。

そして気づくのでしょう。

バランスを保てる主観というものが
いかに自然で、楽なことなのだろうかと。