有無の天秤

多くの人が、
「成長」という概念について
何かしら、例えばそれは
能力だったり、
物質的なものであったり、
何かしらを獲得していくことだと思っています。

得て、満ちていくことこそが
人の、あるいは人生の
幸福であるのだと。

この概念は半分は正しく、
半分は正反対の意味合いで
間違っているように思えます。

人は生まれて、
あらゆるものを無として、
ゼロから出発し、
ひとつひとつ何かしらを獲得していきます。
それを成長と呼びます。

ある段階までは、この成長も
人が生きるために
有用に働くことは間違いないのですが、
「人の成長」とこじつけられた「獲得」も
度を越すと、それが却って
人の足かせとなって、
苦しみな悩みの種になってしまうものでも
あったりします。

人をより自由に、より強くさせてきた「成長」が、
今度は、人を萎縮させる要因へと変わっていく。

それはなぜか。

おそらく、
人というものは
自らが獲得したものについて
往往にして固持したがる性を
持っているからなのでしょうか。

何かひとつ賢くなるごとに、
「こうあるべき」という何かが
ひとつ増えます。
世界を「こうあるべき」と意識した瞬間、
その世界から
「そうではないかもしれない」という
可能性は閉ざされてしまう。

たくさんの物事を知り、
知れば知るほどに、
「こうあるべき事」の数も増え、
気がつけば
「賢さ」という牢獄に囚われて
どこにも行けなくなってしまう。

そう考えると、
「賢さ」というものは
悪であるのかも知れない。

人生はある段階を過ぎると、
得るための人生から
手放すための人生に
その意味合いが変わってくるものです。

実は人の認識は、
得ることによって形作られ、
手放すことによって解体されるものなのです。

得すぎては重いし、
無さすぎても存在できない。
そのどちらもが
人の心を苦しくさせる。

おそらく、
自分はいつも、「有無の天秤」の真ん中にいて、
どこが平衡なのかを探っているのだと思います。

得ることを追求すれば
「有無の天秤」は
「有」の方へ傾き「無」は浮かび上がる。
何もかも捨て去ってしまおうとすれば
「無」の方へ傾き「有」が浮かぶ。

どちらも追求するほどに沈んで、
その反対側は上へ浮かぶのです。

認識というものは
そういうバランスの均衡によって
成り立っているのだと思うのです。

天秤の偏りは個性でもあるのでしょうが、
平衡でない限り
おそらく、悩みも尽きないし、
悩ましい出来事も起こり続けるのだと思います。

天秤の傾き具合によっては
捨てることの方が
幸せなことだってあるのです。

そして人が持つ天秤は
ひとつではありません。

ほんの日常の些細なバランスを測る天秤から、
「自身の人生の中にある価値」という天秤、
「社会の中を生きるための自分」を測る天秤もあれば、
さらには
人の生死の外側から見る均衡を測るもの、
さらに自然の均衡、宇宙の運行の均衡、
この世の成り立ちに影響する天秤まで、
極小から極大まで
様々にあるのです。

あらゆる次元において
自己というものは
そうした認識の「観察者」であるのでしょう。