解像度が上がることを成長と呼ぶ

昨日、人の心を楽器の弦に喩えたお話をしました。

自分の心という現象を
音に喩えて俯瞰すれば、
自分の心も
共鳴する別の心も、そしてまた
そうではない別のそれらもひっくるめて、
自分の全体、つまり
己の全ての人生体験を形作るエッセンスなのだと。

「今ここに存在する自分」というものは、
紛れもなく、
「ひとりの個としての自分という体験」であり
確かにそこに存在する「何か」であるという事は
疑う余地はないでしょう。

ただ、昨日も少し触れたように、
自分を、つまり
「確かにそこに存在する何かであるところの自分」より
高い位置から俯瞰して
自分の何たるやを認識しようとすると、
普段の「実体験」の視点からすれば
およそ自分とは非なるものと感じるものであっても
そこより高い「実認識」からすれば
非なると感じたことの多くが、
いや、おそらく、さらに高次の「実認識」にとっては
あらゆるものが、
「自分そのもの」であると
言えなくもないのだろうと思えます。

つまり、
「実体験」という顕在的な意識のもとで
否定すべきものと認識するそれの存在も、
「実認識」という視座においては
それは肯定されて存在するのだということ。

自分にとって受け入れられないものというものは、
普通に考えるならそれは、
「実体験」によってそう判断されたもののことであり、
それらを含む「実認識」の視点からは、
そうした受け入れられざるものというのは、
「自分はそれらを受け入れられない」という
「実体験の否定」という肯定がそこにあって、
それが「実認識」という視座の次元にある
自分の中に統合されているのだろうという事。

故に「実体験」の世界では
一見、関係のない別々の体験のように思えることも、
「実認識」という観点からすれば
同じ根を持ったものであったりすることもあるという事。
そしてそれらの「根」を辿っていくと
「自分という心の幹」に到達するのではないか。

僕が最近よく言っていることではあるのですが、
人の(自分の)人生の悲喜こもごも、
全てを受け入れて肯定すべきという要請の
基底となる論理は、つまるところ
この事だったりもするのです。

人生という「実体験」の世界において
喜怒哀楽のうち、
誰もがネガテイブな心象を与えるものに対しては
意識的にしろ、無意識にしろ、
避けて見ないようにしてしまうのは心情ですが、
それが結果的に
(昨日の喩えで言うところの)自分の音に
共鳴するものばかり寄せ集めて
共振させる事になるのです。

人の「実体験のみが是」とする幸福を求めるなら、
幸せに感じる物事だけに焦点を合わせて
それを共振させていけば、
意外と誰にでも簡単にそれは実現するでしょう。

けれど、その幸福はまやかしであると言いましょう。
それは幸福ではない。
催眠やヒステリー、あるいは洗脳かも知れない。
こうした心の性質の原理を利用して利益を得るのが
宗教であり、自己啓発であり、
スピリチュアルなものなのだと僕は考えています。

少なくとも、
自然な心の発現ではないと感じます。

「実体験」で本当に幸福な事というのは
それより高い視野のあるところの
「実認識」にあって垣間見ることができるし、
おそらく「実認識」の上にも
より真理に近い視座というものがあって、
その無限の彼方に「実在」があるのでしょう。

「実在」の視野から見える光景では、
喜怒哀楽に善悪や優劣といった「差」は
(あらゆる概念が統合された観念であるが故に)
無くなっていくでしょうが、
感情の波まで無くなるわけではありません。

故に何やらを修行するによって
感情が排除されるわけでもありません。
かの理想郷や涅槃には
幸福のみがあるというのも違うのだろうと思えます。
それら理想郷が幸福のみしかないというのなら、
心の旅の道程にはまだ先があるのだろうと思えます。

「実在」の頂点には全ての音、つまり、
響く音も、響かない音も、
高い音も低い音も、大きな音も小さな音も、
あらゆるものが肯定されて「在る」のだから。
その織り重なり合いの姿こそが「実在」なのだから。

人がより「実在」に近い理解を得る事で、
内にも外にも何かが
具体性を持って変わることもないでしょう。

けれども、
自分の在り方が変わるのだろうと思います。
喜怒哀楽、悲喜こもごも、
あるいは善悪という概念さえ、
全てにおいてのそれの
解像度が上っていく。

それが心が豊かになるということ。

そうしたものこそが心の成長であって、
「実体験」の欲する
幸福や恍惚、
あるいは苦悩からの逃避を得られる境地とは
また別の次元の話なのだろうと思えるのです。