「食べちゃいたいくらい可愛い!」の哲学

今週の話の余談というか、
まあオマケのような話として一つ。

例えば、赤ちゃんが生まれた時だとか、
それが自分の子供であったり、
孫であったり、
と言っても、僕は実経験ないのですが(笑)、
よく「目に入れても痛くない」と言われます。
慣用句となるくらいの例えなのだから、
やはり、それは実際の確かな感情なのだと思います。

同じように、
「食べちゃいたいくらいに可愛い」ということも、
普通に情操的な成長をしてきた人であれば
誰でも抱く感情だと思います。

今週してきた話のテーマは、
「いのち」という存在に帰結するところの
「融合という概念」についてでした。

「目に入れても痛くない」とか
「食べちゃいたいくらいに可愛い」という
これらの感情の裏には、
『そう思える対象を同化したい』という
衝動があるのです。
つまり、
愛するが故に
取り込んで自分の一つにしてしまいたい、と。

変な話、
猟奇的な殺人犯の中には、
自ら殺めた人を食べてしまう者もいます。
あるいは、
死んだ親の遺骨を食べただとかもそう。
また、若干、下ネタが入って恐縮ですが、
「好きな人の○○なら口に入れられる」
というのも、愛ゆえにもたらされる
同化の衝動なのでしょう。
あるいは、すでに同化しているから
口に入れられるわけで。

そこまで悪趣味で極端な実例でなくとも、
仲間意識の存在するところに共有されるものは、
すべからく「同化の力学」が働いているのです。

結論から言うなら、
愛という感情の本質は
「自分とその対象との同化を望む」であり、
その最も安定した状態とは
「肯定そのもの」なのです。

同化への衝動が愛であるのなら、
今週の話に出てきた
男女性の融合もまた、
愛によって仕向けられた衝動なのだろうと思えます。

故に、
愛し合う一対の最終的な行き着く先というものは、
やはり、同化、融合なのです。

なぜ、融合や同化への衝動に駆られるのか。

それはひとえに、
元々は同一の一つであったからなのだろうという推察は、
こうした「目に入れても〜」とか
「食べちゃいたいほど〜」という、
衝動を言い表した慣用句の中に
意外と潜んでいたのだろうと思えます。

愛するということは、
一つになって、
同化して、
融合して、
元の姿に還ることなのでしょう。