学校に行かない理由、働かない理由、自殺

「命の危険を感じてまで学校に行く必要はありません」
ということは
「健康を害してまで社会で働く必要はありません」
ということと根底の部分で
その論理を共有していることを、
そしてそれが許されないから
(大人も子供も)行き場をなくして
自殺を選んでしまうということに、
大人は気付いているでしょうか。

今のこんな時代あっては
学校に行く理由の方が
正当性に乏しいのかもしれません。

それは同時に、
こんな腐りきった社会にあっては、
社会に適応して生きていかなければならない
理由の正当性もまた乏しいのです。

そして、このえも言われぬ世界の歪みは、
既に何十年も前から
教育の歪みとして予見されてことなのかもしれません。

そもそも学校教育とは何か。

勉強ができるようになりたいのであれば、
学校の教育より塾のそれの方が
質の高いものを受けられるし、
社会性を身につけると言っても、
今のこの腐敗した社会に適応できる人間の方が
異常だと思える。
思い出を作る場所は学校という特定の場所にしか
無いわけでもないのです。

正直、僕の人格に欠陥があるのかも知れませんが(笑)
学生、それこそ小学生の頃から
学校に行くことが、いかに人生にとって
時間の無駄遣いなのかと思っていましたし、
いい歳した今でも、それは思っています。

外国の学校教育は知りませんが、
少なくとも日本の学校教育に関して言えば、
明らかに「隷属の育成」だと思えます。
結局、軍国主義時代から変わらずやっていることは
「国家による洗脳」なのだと。
兵隊から社会人(会社員)という立場と名前に
すげ変わっただけで、
やっていることの根本は
100年も前の『富国強兵』の論理と
変わっていないのです。

日本という国家にとって教育とは
弱者の自主性をことごとく奪い
利用するために、
実に狡猾に仕組まれた世作りの一環なのだと思うことは、
世の中を見れば見るほどに
強ち妄想ではないことに気づくと思うのですが、
大多数の人は
適度に娯楽などをちらつかされて
それに気づかせなくさせられていることさえ
知らないかもしれません。

そういう枠の構造を持った社会に
当然適応できない人はいくらでもいます。
けれど、適応できない人間の全てが犯罪者ではありません。
むしろ適応している側の人間の方が
大きな過ちを犯していることもあるのです。

例えばいじめだってそうです。

往々にしていつだって、
集団の中にあって適応できている側が
いじめる立場。
その集団の作り上げた構造、秩序のの中に
適応できなかった側が
いじめられる立場。
そして断罪されるのは
いじめられる側。

この構造がそのまま大きくなって
「国」という社会を形成しているのが
今の日本でもあるのです。

そんな異常な方向へ傾き始めた国の
根幹にある教育システムの中に、
無理をしてまで、まして命が脅かされてまで
身を投じる必要はないのというのは、
以前もどこかの記事で言及した通りです。

奇しくもニュースでは
学生の自殺は今日などの休み明けに多いと
報道されていました。

学校に行かない選択もあるのだと大人は言います。

無思慮な大人は気づかないでしょうが、
学生にとって学校とは
十分に影響力のある大きな主軸となる
立派な一つの社会です。

学生の世界観を大人の世界から俯瞰して
学校に行かない選択があるというのなら、
大人もまた、もう一つ外側の観点から俯瞰すれば
わかるでしょう。

社会から離脱する選択もあるのだと。

学校に行かなくてもいいと言いつつ、
社会から逸脱することは否定する人がいるなら、
それは論理的におかしいし、
その、学校社会のドロップアウトと
国家社会のエクソダスを等価に扱えない人間の
無思慮で無神経な自己陶酔のエールによって
行き場所がなくなるから、
自殺という答えに行き着いてしまうことに
どこまでの大人が気付いているというのでしょう。

合わない場所に留まる必要はないのです。

自殺する子供たちは、命を賭して
それを表現しているというのに、
大人はいつだって
いじめる側(適応者)の視点でしか
物事が見えていない。

そんな大人たちが
この国をも作っているのです。