母性への帰還

「肉体を持つ生物にとって」という
範疇を超えた観点から見る
男女性というものがあります。

肉体的性質で分類される男女以上に、
外的、内的共に世の中には
男性、女性という極性があって、
互いに補完するような形でバランスを取り合って
一つの大きな形を形成しているのだろうという示唆は、
別の記事でも言葉は違えど
度々書いてきたことです。

例えば
個人の内的な世界にもまた、
一人の個人の精神の中には
男性原理と女性原理が宿っているものです。
故に人の作った、人の営む社会にも
その投影として必ず、
男性原理と女性原理という二つの原理が働き、
そのバランスが実質的な社会の姿として
顕現してきます。

男性原理と女性原理の融合によって
もう一つの第三者的存在が生み出される、
という性質に倣えば、
それこそ男女の肉体的な融合、
つまりセックスという行為は
両極に相対する原理の融合によって
新しい生命という「世界」を生むわけですから、
それは最もシンプルでわかりやすく、
そして端的であり、また極論的に、
男女性の融合の性質とそれがもたらすものを
示唆している事実、いや「自然の理」であると言えます。

つまり、
それが形而上の抽象性であろうと、
形而下の具体性であろうと、
「存在」が生まれるところには
必ず原理として機能する男女性の融合があるということ。

この辺りまでは、
記事として書いてきたことなのですが、
ここから考察をさらに一歩進めたいと思うのです。

上記の前置きの件からもわかるように、
あらゆる存在は男女性の融合によって生ずるということは、
言い換えれば、
『あらゆる存在は男女性の融合の結果である』とも
言えるのだと思います。

そして、その存在を生む原因となる融合の、
男女性の構造というものには、大別すれば
均衡と統合のふた通りがあるのではないかと
考えられる気がします。

また、ここでいう「均衡」というものは、
あるいは「分離という状態」を基底にした概念を
一段階上に押し上げたところの「均衡」のこと
であるかもしれません。

分離された二つ(あるいはそれ以上の複数)の
存在や概念に対して整合性を保ちながら
それらを全体の一つの中の性質として
是認することで、全体という一つの構造を維持する。
これが「均衡」です。

分かりやすくいうなら、
天秤の右端と、左端には
同時にまったく同じ個体は乗せられません。
右にある重りの代わりになる同種、同質のものは
乗せることができても、
右にあるそれ、そのものを
同時に左に乗せることができないように、
「均衡」を保つには
分離した何かしらが最低でも一対は必要になるということ。

これを現実の、現代の社会の中の
男女性の原理に照らすなら、
「男女平等」という言葉が
未だ出てくるというのは、
さしずめ、天秤はまったく均衡を
保てていない状態であることがわかります。

まだ、どちらかが重いのです。

なぜ、均衡を取る必要があるかと言えば、
それは、今それが「不均衡」であるからで、
バランスが必要である存在(ここでは男女性)である
というならば、それは
必然的に(ここでいうなら)男性原理と女性原理は
分離した二者であることが弁証されます。

そう。
今、男性原理と、女性原理は
分離し、独立した原理として
人間社会の中で機能しており、
前述の通り、
そのどちらの存在をも是認できるような
整合性を取るための模索こそが、
今の人類の社会に課せられた課題なのでしょう。

有史以前より現代においてまで、
男女性というものは
常に均衡を要する分離したものだったのです。

ただ冒頭からも説いているように、
物事の本質や、その結果には
「常に男女性の原理が働いている」のだとすれば、
人の本質もまた、
男女性の原理のどちらかに偏っていては
その本質たり得ないこともわかります。

つまり、男女性の原理を包括した上で、
それらを超越したところに
人の本質があるということ。

そしてそこに
「男女性の統合」という概念への
示唆が見えてきます。

そこにはもしかすると、
男女性が帰還すべき地平が見えてくるかもしれません。

・・・続く