母性への帰還3(着床へ向かうものとして)

花はその花弁の中に
雄しべと雌しべを有して
一個体の花となりうるのは、
至極当然なことであり、
また自然の摂理でもあります。

さしずめ、動物というものは
雄しべと雌しべ、つまり
オスとメスが分離した状態で存在している
ということになりますが、
オスとメスという別個体の存在として
認識すること自体、
もしかすると人の自我がもたらす感覚であって、
「人間の感覚からするところの自我」を持たない
他の動物には、そもそも
オスとメスが分離して存在しているという
認識を持っていないかもしれません。

人間以外の「自我を持っていないであろう」生き物は
ただただ、この大自然にたゆたう
母性の発露のままに
子を作り、産み、育て、死んでいくという
生命としてもっとも根本的なサイクルを
何億年と続けているのだから。

オスとメスという極性の存在にしても、
突き詰めて考えれば、
それは母性のプログラミングなのではないか。

男性性と女性性というものの
本質的な在り方というものは、
一輪の花のような姿、構造をしているのが
自然の理なのではないかと思えるのです。
もちろん、花のように
わかりやすく、簡単なオスとメスの
在り方はしていないでしょうが。

それでも男性性と女性性の関わり合いの姿として、
花の姿は、その最もシンプルな
模式であり、あるいは雛形ともなりうるのではないかと。

雄しべや雌しべ、あるいは
精子と卵子というものを、
これまで説明してきた男性性と女性性の
概念に当てはめていくなら、
女性性というものは
生命を次代へと繋ぐ、
『生命の根源的な本質』であると言えますし、
男性性は「所詮」と言ってしまえば
言葉は悪いかもしれませんが、
女性性の未来のためのエッセンスなのでしょう。

されど、この事から分かるように、
女性性の未来の鍵は
男性性が握っているとも言えるでしょう。

いささかロマンティックに聞こえますが、
女性性は未来の鍵を持つ男性性を探す性であり、
男性性は自分の鍵を託すことができる女性性を
探す性であるのかもしれません。

そして、
この各々の探すものを
見つけ出したいと思える衝動こそ、
『母性の導き』であるのではないかと思えるのです。

つまり、
男性性も女性性も
「母性から分化した性質」であるのだということ。
そして二分化する前のその母性というのが、
存在を存在として、
現在から未来へと存続させようとする
自然の働きであり、
それを人は「いのち」と呼ぶのでしょう。

もちろん母性の主体は
女性性にあるのだとは思います。
「いのち」を繋ぐのは常に女性であるのだから。

女性性は母性の導きによって
いのちという子孫を次代へ残す衝動を叶えてくれる
鍵を持つところの男性性の到来を待つし、
男性性もまた母性の導きによって、あるいは
女性性の向こう側にある母性を目指して
「自分の鍵」を携えて野に放たれるのです。

着床の瞬間というものは
それ故に神聖な瞬間なのかもしれません。

男性性、いや
男性は母性(母親という意味ではなく)という
中心に向かって
女性性にたどり着き、
そこで女性性と融合して溶けて無くなるのだろうと思います。

鍵は女性性の中に取り込まれて、
その母性の中から再び産まれ直すのです。

それは母性の願いでもあるかもしれません。

たとえ願いの一つが潰えても、
母性は願いを生み続けます。
十の願いが潰えるのなら、
百の願いを産むでしょう。

それが母性の営みなのだから。

冒頭の例えで言うなら、
母性とはまさに
雄しべと雌しべを有する
「花そのもの」のことであり、
それこそが「いのちの姿そのもの」なのです。

男性性と女性性が存在するところには、
いや、正確に言うなら、
「男性性と女性性の存在する場」そのものが
「いのち」であり、
男性性と女性性の原理が
その存在の全てに及ぶのであれば、
その存在全てもまた「いのち」なのです。

故に、人間個人はいのちであるし、
男性と女性という個人の集合である
社会もいのち。
国もいのち、世界もいのちなのです。
さらに飛躍すれば、この宇宙全体そのものでさえ、
いのちであるとも言えるのです。
それも「一つ」の。
そして、そこを貫通する力とは母性。
産み続けて、物理的な未来を作る力。

男と女は不用意に
対立構造を作って
分離させてしまっては、
自然の本来あるべき姿を損ねるのかもしれません。

ひとりひとり、個人の次元で
愛し合えるのなら、
世界中の人とだって愛の元に混じり合えるはず。

混じり合えたその先に、
母性は未来を産むのだから。

ただただ母性は、
いのちの本質に従って
未来を産みたいのだから。

男性性はそこへ還りたいし、
女性性はその還りを待っているのでしょう。