全肯定

ここ最近の記事では、
人の感情のうち
たいていの人は避けたり、経験したくないような
いわゆるネガティブな感情の全般について
決して捨ててはいけないと説いてきました。

結局、そこにある真意は何なのかというと、
まず前提として
「楽」に属する感情と同様、
「苦」に属するそれも
紛れもなく人の心の発露、
つまり「我思うそのもの」であるがゆえに、
それは切り捨てることはできないという点を
ベースに考えているところから始まります。

つまり、
その質の苦楽を問わず
自身の感情の発露を純然と肯定するとき、
それは純然とした自己肯定の世界を
生きることになるのですから。

捨ててしまうのは、
まして以前は有していた特定の感情を
捨ててしまうのは、
克服ではなく、欠落です。
厳密には認識しうる範囲の中での
人の心にとっての完全な欠落は存在してないので、
それは欠落とは言わず、
抑圧と呼ぶのでしょう。

意識の上層に顕在化してきた感情を
再び下層、潜在下に押し戻しては、
人は必ず同じところで、
良かれ悪かれ、
同じことを繰り返すはずです。

なぜなら、抑圧された感情は
一向に昇華されることがないのだから。

「苦」に属する感情とその体験から逃れられないのは、
一度出てきたそれを、忌避のものとして
直視せず、昇華させないままに
再び意識の深層に隠してしまうからなのです。

けれど、「苦」に属するそれは
どこまで理解を深めても
「苦」であることには変わりありません。
「苦」という概念を
深く理解すればするほど、
「苦」も深いのは当然のことでしょう。

ただ、ここで考えてみてほしい。

例えば自分が
とてつもなく落ち込んでいたとして、
誰かから何かしらの
浮上させてくれるような言葉を求めたとして、
果たしてその時、
大した「苦」の概念も知らない人に
「そんなに落ち込まずに、前向きになりなよ!」と
叱咤されるのと、
かつて同じ思いをした経験のある人に
「わかる。それつらいよね」と
肩を抱かれるのと、
どちらが救い足り得るのだろうかということを。

どちらが全体を含む愛、
つまり、よりアガペーに近いものは
どちらか、ということなのです。

おそらく、「苦」という概念は
人が考えるより大きいのです。相当に。

アガペーを前にすれば、
「苦」さえも区別して愛せない、
あるいは捨ててしまうのであれば、
それは「条件付きの愛」であって、
アガペーのそれからは異なってしまうものなのです。

その一定の感情を極限的に見てしまえば、
それは避けてしまいたいような
面倒臭い感情であるのでしょう。
ただ、その感情から起因する
正しい因果の至る先に
博愛が現れてきはしないでしょうか。

よく、
すべての「苦」に属する感情や思考は
手放してしまえと言いますが、
ここでいう「手放す」という意味を
捨ててしまえだとか、
放棄してしまえだとか言うのは
明らかに誤りです。

「苦」に属する想いは
永遠に存在し続けるのです。
『自分の心が発振し続ける限り』

そもそも、
赦してしまえば、何一つ苦痛な想いなど
成立しないではないか。

「手放すこと」とは
「赦す」ことであり、
自分の世界から無くしてしまうことではないのです。
そして、
善いものであれ、悪いものであれ、
いかなる思考や感情を排除し、放棄しては
幸福の道へは永遠にたどり着けない。

「苦」はそのまま「苦」であり続け、
けれど自分の見方だけが変わる、
それが心の成長であり、
その「苦」に対して
実際に何を選択し実践とするのか、
それが智慧でもあり、
それらを健全な方向へ進歩させるには
喜怒哀楽、愛憎、どれもが必要な要素であって、
成長するほどに、どれもが深くなるのだと思えます。