憎しみも世界

恋することが
自分の中の愛すべき側面の投影を
経験することであるならば、
また一方で
憎むこともあるいは
自分の中の憎むべき側面を
投影する経験であるのかもしれません。

恋がそうであるように、
目の前に憎むべき奴がいるのなら、
それは突き詰めて考えれば、
「そういう奴を憎む自分」を
経験しているのだということ。

その憎む相手というのは
自分がそれを許せないことに起因して
憎むのであって、
それは、そういう事柄を許せない自分を
経験しているのだということ。

恋が冷めて、対象である人への想いが
意識からなくなってしまうように、
憎しみもまた、憎まなくなることで
その存在のことなど
どうでもよくなるものなのでしょう。

しかしこれは理屈でもあります。
果たして人はかくのごとくそれを
素直に実践できる存在でしょうか。

例えば、
自分の存在を否定され
虐げられるような日々を常に送っている立場の人。
あるいは、
凶悪な犯罪の被害者、
さらには
狂信的で無差別的なテロリストの被害者。

それらを人に赦せと強いるのは無理だし、
また酷でもあります。
ともすれば、「ここで赦す」ことは
自分の身の危険を招くことでさえ
あるかもしれません。

しかし、これが人間共通の「業」でもあるのです。
人がこの世に生きている以上、
避けては通れないものでもあるかもしれません。
どれだけ自分が無垢であることを貫こうとしても
否応無しに「赦せないこと」は見せられるのが
この世界でもあるのです。

この世において
人は各々に無知な存在です。
誰もが間違うし、間違ったままでもあるのでしょう。
まして不快な経験までも
自分のものと背負いこむことのできる人は
そうはいないし、それを理解できても
いざとなれば実践できるかも怪しい。

そんな無数の人たちが過ごしているのが
この現実の世界なのです。

そして憎しみの全てが
相手のものであると、
相手に丸投げにしたままで
世の中が良くなるはずがないのもまた事実です。

故に「赦し」は美徳なのでしょう。

赦すことで救われるのは
決して憎むべき存在の方ではありません。
本当に救われるのは
何より自分の心なのです。

何故なら、
赦すことで自分は、もうそのことで
憎むことから解放されるのだから。

こうして玉ねぎの皮を一枚ずつ
剥がしていくように
許していくことで、
埋もれていた「愛する感覚」は発掘され、
自らが見つけ出した
己の愛の形に歓喜するのです。
愛せない部分を赦して脱ぎ捨てていく行為でもあります。

その自分の愛の形は
何にも代えがたい
自分の愛の形です。

そしてきっと憎しみ、それ自体が
それを癒す行為を通して
人の愛する能力を育てているのだと思うのです。
故に「愛せない、憎いと思える感情」というものは、
自分の内的世界の
不可分になる最後の最後まで
付いて回るのです。
決して、人の精神の発達の過程で
全く放棄してしまっていい感情ではないのです。

憎しみもまた、
自分という世界において
一定の役割を持った重要な概念であるから。

憎しみもまた世界なのです。