ヒトという病

極限まで冷静になって俯瞰すれば、
人間の社会というものは
所詮、猿山に過ぎないのだと
思い至ったりします。

ヒトは猿より多くの道具を使うことができるし、
何より言葉を話すことができます。
あるいは言葉を話すことができるくらいに
発達した脳であれば、
野生をコントロールするだけの
理性も発達していることでしょう。

これがヒトと猿の決定的な違いではあるのですが、
しかし、この差異を除いてしまえば
その振る舞いというものは、
やはり猿と同じであると感じます。

ヒトと動物の違いには
超えられない壁があると考えるのは
おそらく、ヒトの奢りだと思えます。

事実、他の動物より
たくさんの、そして複雑な道具を
使うことができるようになって
ヒトは発達したかといえば、
むしろ退化してしまっている部分が多いです。
人間が独り文明の利器のない
自然の中に放り出されたら
そうそう生きてはいけないことを考えると、
それはつまり、
種として衰えたことを意味するのだろうと思えます。

他の動物と違って
言葉を話すということはどうでしょう。
これは果たして動物として
決定的に優位な能力と言えるのでしょうか。

人間の言葉は人間にしかわからないどころか、
国の言葉が違えば、
言葉というツールは全く役に立ちません。

それに他の動物であっても
人間が知覚できるような
話す言葉は持たないかもしれませんが、
人間がわからないような
コミュニケーションを取り合っていると
感じさせる動物はたくさんいます。

ヒトは言葉によるコミュニケーションに頼りすぎて
失ったものも多いように思えます。

例えば不信や束縛などというものは
ともすれば言葉を持つがゆえの
苦悩かもしれません。
それどころかもしかすると、
人の認識し得る「悪徳」というものの全ては
「言葉」によって生み出されたものかもしれません。

いずれにしろ、このような
ヒト特有の能力を利用して構築された
社会というものこそ、
「ヒト社会という猿山」に過ぎないのです。

この地球上においての
ひとつの生物、あるいは生命の営みに過ぎないのです。
そしてそれは優れているどころか、
むしろ自然環境を侵食しているのです。
こういう視点から俯瞰すれば、
むしろ人類という種は
劣等な種であるとも言えるかもしれません。

そうした人間の過ちのツケは
他の動物や自然から前借りしているに過ぎません。

ゆえにヒトの作ったこの猿山は、
基礎の部分が壊れても
誰も直そうとは思わないし、
自分が生きているうちに
それが崩れるなどと考えてもいないのだと思います。

これが自然環境や地球の観点から見たときの
「人類」という病の病理なのです。
その病原体は「奇形の猿」なのです。