愛を持つことはできない

昔から、
驚くほど多くの異性と関係を持ったことを、
まるで手柄でもあるかのように
自慢げに話す人というのはいます。

つまり、異性の愛を
「これほどの数も得た、手に入れたのだ」と。

愛という概念だけに
限ったことではないのですが、
物事には
「所有する」質のものと、
「それそのものである」質のものの
ふた通りがあるのだと思うのです。

所有する(できうる)ものというのは
元来、「自分」の内外どちらにも
存在していないもののことを言います。
持っていないものを補うことが
所有することなのです。
基本的に物質的なものというものが
これに属するのでしょう。

一方で
「それそのものである」ということは
本来、すでに器質的、性質的に
備わっているものことを言います。
例えば「生きていること」は
本来、人に備わっているものの最も根源ですし、
太陽や空気のような自然のものもまた
自然というシステムにあらかじめ備わったものたちです。
これらは「もの」というより
むしろ「状態」に属するものなのかもしれません。

しかし、「それそのものである」という「状態」を
人は時に失うことがあります。

「健康」などは、それを備えている状態の時には
「それそのもの」であっても、
病気や怪我などでそれが損なわれると
元の健康な状態に戻すために
病院に行ったり、薬を買ったりと
「所有」の対象になるのです。

ゆえに、物事には
「所有すること」と
「それそのものである」ことの
ふた通りあるとは言えど、
この両者は両極の概念ではなく、
「理解の深さ」という次元の違いによって
概念も変わってしまうというとなのかもしれません。

さて、ここで冒頭の「愛」について、
その遍歴の多さを誇示する人が自慢するところの
より多くの「愛を持った」ということは
果たして、より多くの愛を知り得た人と
なり得るのでしょうか。

おそらく
「所有すること」と「それそのものである」こととが
似て非なるものであるのなら、
いっときそれを所有したことの誉れとは
それだけ「愛への渇望」を内包したものであると
言えるのかもしれません。

結局のところ、
「所有の概念」を基底とするものは
基本的には何でもお金で買えたり、
あるいは、お金に換算できたりするものだったりするのです。
特に経済の状況がどんどん悪くなるばかりの
資本主義社会にあっては、
どんなものでも「所有の対象」にさせたがります。

「自慢の多数の恋愛遍歴」というものもまた、
直接的に「お金」とはならないまでも、
相手を口説くために何かをプレゼントしたり、
あるいは相手から何かを貰うためだとか、
つまりそれは物々交換がやりとりされているわけで、
こうしたことは本質の部分では
それはすなわち
売春、買春とさして変わりはないのではないか。

「愛」という概念もこの思考に陥ると、
何かしらの「物質的な力」の交換になってしまうし、
それが余計に愛をして「所有するもの」に
させているのでしょう。

けれど、愛というものは果たして
本当にたったそれだけの
小さなものだったのでしょうか?

そもそも人はまずはじめに
「自分が愛する」というところから
始まっていたのではないでしょうか。

自分から発露する愛があるのなら、
その発せられたそれは
「それそのもの」のことであり、
わざわざ「所有」する必要のない
元来持ち合わせていた「状態」であったはずなのです。

しかしながら、
自分ひとりで愛を発したとしても
その対象となる相手の必要な話でもあります。
そこで対象となる相手がいないことが
最初の不幸になるのかもしれません。

対象の不在が
対象の所有を掻き立てるから。

そして所有していないことが渇望となり、
本来の「そのものである愛」を
心の奥底に沈めてしまうのでしょう。

「そのものである愛」を認識できなくなるから、
所有することのできる質の「愛の成れの果て」に
依存していくようになるのだと思います。

気がつけば、
本来の姿である原初の愛からは
似ても似つかない程遠いものが
心の中に漫然とした霧となって
視界さえも奪っていくのです。

所有できる質の愛というのは
おそらく人の精神性の中でも
最も稚拙な愛の概念であると言えるかもしれません。
これはもはや、愛というより
執着や欲望に近いものと言えます。

けれど愛はもっと磨かれてゆくべきだと思えます。

やがて愛は
アガペーに達して「そのものである」とき、
アガペーを起点として存在する魂は
もう一人の自己に出会うのかもしれません。
「もう一人の自己」とは
純然とした「自己そのもの」としての
自分と、対となる客体としての自分。

誰もがその「魂の旅」をしているのです。