恋は世界

ごく一般的な恋愛というものはおそらく、
往々にして、
自分の内面のあらゆる性質について
恋をしているというところに
行き着くのだろうと思えます。

人を好きになるということは当然、
相手がいて、その「相手の持つ愛すべき側面」に
恋をするということなのですが、
これも突き詰めていけば、
そこにあるのは
「自分が愛すべきと思える性質を持つ相手」が
いるのではなく、
「自分が愛すべきと思える相手の側面を恋しく思う自分」
がいるというのが、正確なところなのだろうと思えます。

つまり恋心に感応しているのは
相手に対してではなく、
あくまで自分の内面であって、
その内面を相手の振る舞いを通して
投影することで、
あたかも相手に恋をしているかのように
思えるのだと。

故に相手のこんなところに恋をしていたはずなのに、
実際はそうでなかったことを知った時に
なぜか幻滅してしまうという恋の悲劇も起こるのでしょう。

そして恋というものは
「好きと思える相手に出会えた時」に
やってくるものではなく、
「自分の内面に何かしら愛せる一面が発露した時」に
自然とふつふつと湧いてきて、
やがてその想いを投影できる誰かに
出会えるのだろうと思えます。

それはまさに自分の内面を写す
鏡のようなもので、
自分の内面そのものや
映し鏡が曇っているうちは、
なかなか真実の自分の姿を
相手に投影し愛することは叶わないかもしれません。

しかし、そうやって失敗を繰り返していくうちに
自分の内側も外側も磨かれてゆけば、
非常に純度の高い恋心を
自分自身から発することができるだろうし、
そこに感応し投影される誰かに対しても、
非常に純度の高い理解を体験することも可能なのでしょう。

純度の高い恋というものは
それほどに「愛せない部分の無い」恋のことであって、
おそらく誰もが夢見、憧れるような
恋の相手というものは
おそらく、そういう人のことを指すのでしょう。

当然、そういう投影を引き受けてくれるような
相手に出会うには、
自分の中に「愛せない部分」を
ことごとく赦して、手放していく必要もあるのです。

そしてそれは、単なる恋の相手探しという目的ではなく、
本来の自分に戻っていくための
魂の旅路でもあるのかもしれません。

己を磨き、その心の純度を高めるほどに、
そこに映る自分の姿は
完全なる一対なるものとなるのです。

そういう人のことを
きっと魂の片割れとでもいうのでしょう。

その人は最後の相手であると同時に、
自分の本来の姿であり、
また「世界そのもの」でもあるのだと思います。