母性への帰還2

男女性の原理とその概念について把握するのに、
その対象は「あらゆる存在について」及ぶが故に
あまりに漠然とし過ぎるるので、
ここではあえて限定して
「人の男女」を引き合いに出して説明します。

まず、社会的役割から見る男女について、
前回の記事でも書いたように、
時折、社会では
男性の権利だとか、女性の権利だとか
ニュースや書物などを通して言われたりしますが、
そもそもこういう観点に終始してしまうと、
男女性というものは
分離された個別、独立したものであるかのように
理解されるのが、
今の社会ではある意味、
常識というか、常態化して然り、
という状況にあることは明白でしょう。

社会では、
もちろん、お風呂だとかトイレだとか、
肉体的機能に準じて分けるのはまた別として、
あくまで「自分の立場、役割」というものを
男性か女性のどちらかに
あまりに乱暴に分けすぎなのでしょう。

人間の社会という観念の枠の内側で生きるには、
程度の差こそあれ、必ず
『自分は男女どちらかなのか』を
宣言する必要があるのです。
おそらく察するに、
性的マイノリティに属する人たちは
それのマジョリティよりも
痛切にこのことの無用性というか、
ここから生じる様々な葛藤や苦悩を知っているでしょう。

そして、
元々、男性が構築して、運用してきた社会構造においては
男性にとって都合のいいように(有利というより利便的に)
作られているこの社会では、
『女性もまた男性の原理に合わせて生きなければならない』
という不合理を抱えたまま
社会への適合を暗に強要されてしまうことが
この社会の姿を歪めてしまっているように感じるのです。
特に日本のウーマンリブ運動には
こういう一面が隠れているような気がします。

ここで、
昨日から記事に書いているところの
「あらゆる存在は男性原理と女性原理の融合の結果である」
という前提を思い出していただきたいのですが、
例えば(ブログでは度々書いていることではあるのですが)、
既存の男性主体の社会の中で
女性が男性のように振舞って
男性を駆逐していくことが
女性(あるいは女性性)の自由であるとは思えませんし、
もし駆逐することが自由であるというのなら、
そこでは必ず、男性(あるいは男性性)の
存在の自由そのものが脅かされるようになるはずです。

それを考えると、
現代においては一般的に誰しもが、
男性性や男性原理、あるいはそれに対する
女性性やその原理に対して
どこか考え落ちしている部分も多々あるのではないでしょうか。

だいたい、そもそも、
広い意味での(個人的な関係性を含まない)
一般論的な性差において
『男と女という存在は、
対立構造によって立つものではない』はずですし、
そこで性差を論じて生じる対立構造こそが、
人の社会の営みから
男女性を溶け合わせるという発想を摘み取ってしまった
元凶であるかもしれないのです。

性差に対立構造が生じるということは、
実のところ、非常に寒いことだと思えます。
対立構造は、常に両極性を伴う概念ですから、
そこに勝つ人、負ける人という差異も生まれますし、
それによって傷つく人、失う人もいれば、
本来、背負う必要もない無為な業さえも作りかねない。

今一度問うなら、
男女の関係というものは(一般論的概念として)
それほど寒いものだったのでしょうか。

上の文章で( )付きの補足として追記したように、
個人対個人の男女の対立ではなく、
今のところはまだ、こういう男女の権利や尊厳の問題は、
一般論的で、概念的な部分が多いであろうことは
救われる点だと思います。

それはつまり、
男が、とか女が、とか
論調としてそうした考えがあることは知りつつも、
まだ、いち個人のレベルでは
男性と女性は純粋に愛し合う営みや本能は
捨ててはいない人の方が多いであろうから。

それでも、愛の感情を伴う状況の中にある男女の間で
不実や不貞、不倫などがあるのは、
男性原理主体の旧来の社会構造と
それに屈して準わなければならない女性性に生ずる軋轢とが
男女の関係の中に落とした影なのだと思えます。

言い換えれば、
男女性の誤った形の融合の結果、生じた影とも言えるでしょう。

この影に呑まれると、やはり人というものは
他者を信用できなくなったり、
あるいは恐れすら抱くようになってしまいます。

こうして、悪循環に陥るように
男女性は分離したものとなっていくのです。
二人の男女という人間も分離していくし、
そうなってしまう要因と言えば、
紛れもなく個人の心の中の
男性性と女性性の分離にあるのではないかと思えます。

離れていると思ってしまうと、やがて失う。
信じていれば、いつだって抱き合えるというのに。

・・・続く。