もう人の言うことは聞くな、

本質的に「智慧」というものは、
外から得るものではないと思うのです。

結論から言ってしまえば、
基本的に外部から得られる知識というものは、
智慧を身につけるというより、
ある種の刷り込みなのだろうと。

悪く言えば、それは洗脳であり、
また、自らの精神への
侵襲を許すものでもあるのだろうと思うのです。

本当の智慧というものは、
自分自身の体験を通して
「気づいていくもの」
なのてはないかと思うのです。

実はおそらく、
教育にも同じことが言えるかも知れませんか、
「学ばせる」という事は
逆に「学ぶ力」を奪っている事でも
あるのではないかと。
と同時に、純然とした「個の精神」の発露を
萎縮させてしまうのが
「誰かから学ぶ」という事。

分からない事は何でも人に聞くのは
別にそれはそれで良いのですが、
知識や智慧の獲得について
完全に他者に依存してしまうと、
自分では学べない人間を育ててしまうのだろうと思うのです。

日本人は特にこの「自分で学べない」症候群に
陥っているような気もします。

これ利用して
何かと個人の力を奪っていくものが
国家であり、宗教であり、
スピリチュアルなものだとか
自己啓発であったり、
また、一般常識や根拠の無い習慣であるのでしょう。

上のどれもが、
自分で考えない、あるいは
自分で考えさせないことで
その、在るかも分からない存在が
成り立っているのです。

そして、本当は存在しないものを、
考えさせないようにすることで
在るように見せかける、
それが啓蒙なのかもしれません。

そうは言っても誰だって、
分からない事があれば人に尋ねるのは
ごく自然の事ですし、
僕だってもちろん
日常的に同じようにしますし、
そうやって一つづつ賢くなっていることに
何も偽りはありません。

要は外から得られるものは
単なる一つの情報であって、
真実というものは、
そこから自分の中で醸成されてこそ
得られるものだと思うのです。

情報を情報のまま熟成させないまま、
自身の精神の核まで、それの侵襲を許すのか、
あるいは、自身独自の内的世界の深みとして
昇華するのか、という事なのでしょう。

外からの情報を、智慧として
疑う事なく依存してしまうと、
間違った事に対しての免疫が無くなるのです。

つまり、あらゆる啓蒙というもの、
それはこうして書いている、この記事も然りなのですが、
それらはともすれば
個人の主体性を奪って、
その内的世界の免疫を無力にして、
個人のそこへの侵食を許す危険性のある
質のものだったりするのです。

どのような答えに行き着くにしろ、
最終的には
自分の中から真実を
選びとっていかなければならないのです。

外からの情報は、あくまで情報であり、
自身の賢さを形成するための
いわば部品でしかないのです。

そしてその部品から
自分は何を組み立てるのか。

それが自由意志であり、
外からの情報への完全な依存とは、
ともすると、
精神の完全性を奪うものにも
なりかねないのです。

人は誰しも、
自身のオピニオンは
常に自分なのです。

極端に言ってしまえば、
本当は誰からも教えを請う必要などないほどに。