情報も断捨離できる

いつだったかは忘れてしまいましたが、
少し前、
「ニュースを見ない勧め」的な内容の
記事を書いたことがあります。

改めてどういう記事だったか要約すると、
ニュースや新聞で取りざたされる出来事の多くは
実生活に直接関わってくるものでは
ない事だったりするので、
別に見る必要はない、というものでした。

実際にそういう生活を数ヶ月、実践してみて思ったことは、
やはり、ニュースなどの情報をわざわざ入力しなくても
実生活は実生活で、
普通にこれまで通りに、何に不都合もなく
やれているということ。
それどころか、内的な部分では
おそらくすっきりしている気もします。

まず、断りを入れておくなら
ニュースなどの情報を一切見ないというのは
少し語弊があるかもしれません。
実際はテレビのニュースなら
聞いていても完全にスルーだとか、
ネットのニュースであれば
見出しの部分しか読まない、だとか。
もちろん、興味を持ったものは見ますけど、
関心のない出来事は完全に素通りです。

そもそも、
例えば殺人事件だの虐待事件だの、
確かに遺族や被害者の人の立場からすれば
素通りでは済まされない
深刻な出来事だとは思います。
まして、芸能人のゴシップなど
取るに足らない。

けれど僕自身はその当事者ではないし、
何より僕はそれを
『情報としてしか知り得ない』のですから、
それは「自分の認識」の中では
限りなくフィクションに近い
ノンフィクションなのです。

そうして、興味のない話に対して
(特に感情的に)あまり深く首を
突っ込まないようにすることは、
世界を狭くすることに繋がるのではないかと
考えたりもしましたが、
自分に必要な情報というものは
不思議と必要な時に、それどころか
どこよりも早く
得られたりするのだったのです。

大量かつ無駄なニュースという情報に
曝され続けると、
本当に重要な情報は何であるのかを
見出す感覚まで麻痺してしまうような気がします。

不必要な情報に振り回されることで、
実生活での自分の振る舞いにまで影響が及び、
そうすることで
巡り巡って、無為な結果を背負いこむことにも
なるように思えます。

こうしたことから考えるに、
どうやら外側にある情報等いうものは、
単に必要であるか不要であるかという
次元ではなく
『自分のものか、そうでないものか』という
判断基準があるのではないかということ。

自分のものではない情報を負わなければ、
必然的に
自分のものの情報が残る、という話。

・・・これは正しいのだろうか?(笑)