自分を特別と思うな。替わりはいくらでもいる・・

例えば、人間の体の臓器などは
もちろん限度はあるのでしょうが、
ある臓器がその機能を失うと
別の臓器がその代わりの機能を
果たすようになることがあるのだとか。
そのような話を聞いたことがあります。

話の真偽はともかくとしても、
世の摂理として
失われたものの替わりを
別の誰か、もしくは何かが
果たすようになるということは
やはりあるのだと思えます。

生みの親でさえ、
その役割を放棄した時、
育ての親が現れたりするくらいなのですから、
まして、自分が何者であろうが、
その自分の役割を果たさなければ
その代わりの存在などいくらでもいるのです。

個人という個性は言うほどオンリーワンではないのです。

世界を広い目で見れば、
自分の代替となる性質を持った個性など
ごまんといるのです。

特に日本では、その国民性も相まって
古来より何かと全体主義的な秩序を求める風潮
と言うものがあったのですが、
それが戦後、バブルが崩壊した頃からでしょうか、
平均的な個性を否定する風潮というものが
現れるようになってきました。

かの有名な歌にもあるように、
もともとオンリーワンなのだから
ナンバーワンにならなくてもいい、と。

これは確かに真理だと思いますが、
世俗の人々はこれを、今の今までずっと
悪いように履き違えているのだと思えます。

先の歌に関してはおそらく
「自己肯定の重要性」を説いた歌と
言えるのだとは思いますが、
一般的、世俗的な解釈は、
そのように解釈され、
実践されることはなかったのだろうと思えます。

誰もが、
自分がナンバーワンではない、
あるいは、なれない言い訳に
オンリーワンを使うし、
また、オンリーワンを理由に
秩序を乱すことや怠惰であることを
肯定してしまった結果が、
いまの日本の社会の姿なのだと思えるのです。

当然、それは僕自身にもまた
言えることなのだろうと思えます。

重ね重ね言えば、
誰しも社会の中で、
自分の代わりになる人間なんて
掃いて捨てるほどいるのです。
『自分という存在は唯一無二のブランドではない』のです。
誰もが大差はない。

けれどそこを履き違える
「オンリーワン礼賛思想」においては、
そうした現実があるにもかかわらず
言い訳がましく、
自分はそれでも唯一無二であると言い張って、
切磋琢磨しようとしないから堕落するから
世の中の九割九分九厘の
とりたててめざましくもない
平凡な人たちのまま生涯を終えるのです。

先の歌で、
「ナンバーワンは要らない、
もともとオンリーワンなのだから」
と言える資格を持つのはあくまで、
『ナンバーワン』と呼ばれる人であるのですが、
その理由はなぜか。

歌の中でそう説く人は、
「ナンバーワン」という立場にコミットし、
その立場であり続けることに疑問を持つことで
ナンバーワンよりオンリーワンを選んでもいいのだという
選択をできることを悟ることができたからです。

つまり、
歌の中の人は
「ナンバーワン」という立場の延長、
あるいはその発展、深化として、
「オンリーワン」へ連なる道を作ったのです。

一方、怠惰であることの言い訳に
オンリーワンを騙るものは、
ナンバーワンの世界と
オンリーワンの世界は
完全に乖離して、
『沈んでいくナンバーワンの世界の
スケープゴートとして
オンリーワンの世界を礼賛する』のです。
あわよくば、
仮にナンバーワンという立場を与えられたら
オンリーワンという世界など
簡単にしててしまいかねない薄情さを感じる。

この差なのです。

「ナンバーワンという使命」を
全うしていく中で
「オンリーワンの境地」は浮かび上がるのです。

自分はナンバーワンであることを放棄すれば、
代わりのナンバーワンは
他にごまんと、捨てるほといるのです。

もちろん、ここでいうナンバーワンというものは
「競争原理に基づくもの」だけとは
限らないものです。

「自分は何者であろうとするのか」の
「何者」についてのナンバーワンであればいいのだから、
それは例えば、
野菜を育てる人かもしれない、
あるいは勉強を教える人かもしれない、
人の命を救う人のことかもしれませんし、
単純にわかりやすく、
プロスポーツのナンバーワンであってもいいし、
先の歌を作った人をはじめ、
僕のような最底辺ではあっても
歌を作らせたらナンバーワンであるのかもしれない。

そのような具体的な立場でさえなく、
単に優しさや誠実さのナンバーワンであってもいいでしょう。
冷静さのナンバーワンであってもいい。

個人の性質というミクロな意味合いから
自分と社会の関わり合いのという
マクロな意味合いに至るまで、
そういうものを徹底的に実践することを
「天命」というのだと思うのです。

社会に対して
「自分は何者だ」と宣言したなら、
あるいは、
「自分の天命はこれだ」と宣誓したのなら、
必ずその選んだ道のナンバーワンを
目指さなくてはならないのです。
自分の人生の中で発揮できるエネルギーを
全て、そして純粋に注ぎ込んで。
それができないのなら、ゴミだ。
まして、オンリーワンを言い訳に
ナンバーワンを目指さない人間など、
ゴミ以下だ。

自分をゴミ以下の存在にさせるような
周囲の言葉の圧力をはねつけて、
自分という命のエネルギー全てを使って
天命たるもののナンバーワンを目指すことの先に
オンリーワンの境地が垣間見えてくるのでしょう。

オンリーワンの境地とは
自分の信じた使命のために、
どんな障壁にさえ屈し、倒れることなく
「生き残った人たち」のいる場所なのです。

オンリーワンとは
その道に邁進した結果としての殿堂なのです。

凡人から達人へ、
達人から名人へ、
ナンバースリーからナンバーツー、
そしてナンバーワンへ。
そのナンバーワンよりもさらに高みに
オンリーワンという
「もう追いかけなくてもいい地平」があるのです。

まして俗人のように、
ナンバーワンと
オリンーワンを切り離して、
どちら、自分の都合のいい世界を生きる
というような世界ではないし、
そもそも、生まれながらにして
ナンバーワンを突き抜けた
オンリーワンという存在であろうはずがない。

ナンバーワンを放棄した
そういうオンリーワンこそ
ごまんと、掃いて捨てるほど
替わりがいるのです。