慈愛と断罪

Remiel
人を断罪する時にこそ
慈悲を持って断ずるべきだと思うのです。
なぜなら
慈悲の地盤に打ち立てた
裁定でなければ、
それはただの
復讐に過ぎなくなってしまうからです。
もしそれが、
断罪される側の人間にとって
最後の裁定である場合は、
くれぐれもよく考え
慎重に裁定すべきでなければなりません。
そしてまた、
あなたが
人を断罪すべき人になったとき、
その断罪される相手に
その裁定をどう伝えるでしょうか。
そこに慈悲は込められているでしょうか。
それとも報復の怒りに満ちているでしょうか。
結局のところ、
人が他者との関わり合いの中で
求められるべきものは、
何においても
「慈悲」「慈愛」
これ以外に他はないのです。
そして断罪の対象とならない人は
その「慈悲」「慈愛」を
よく知るものであるとも言えます。
彼らは「慈悲」や「慈愛」の
ビジョンを常に見ており、
それらを常に行なっているものです。
それはもしかすると
選ばれた人間であるのかもしれません。
誰に選ばれたわけでもなく、
自らが自らの「慈愛」を
選びとった、
そういう意味で
彼らは選ばれたのではないでしょうか。
「慈悲」や「慈愛」というものは
自分で選びとるが故に、
人を断罪する際、
「慈悲」や「慈愛」という基盤の元に
彼らを裁定する事が出来るのです。