目に見えぬ癒し手

The Pisces
どうか身を賭して
人を救おうとする
その精神が心のどこかに
少しでもあるのなら、
その心を決して
捨てて欲しくないのです。
はっきり言ってしまえば、
肉体的苦痛より
精神的苦痛の方が
より長く深く心に突き刺さり、
結果的に肉体的なそれに比べて
計り知れない苦痛を伴うものなのです。
例えばあなたが
その身を賭して
人の心の支えになろうとするとき、
他の人はあなたに
博愛の精神を見る事でしょう。
博愛の体現を見る事でしょう。
人が人たるという事の
もっとも根源的な目的は、
博愛、献身、そして絶対的な癒し。
これらをその心に持つものは
尊大でかつ、偉大です。
しかしそれらを
周囲にひけらかす事は無いでしょう。
人の根源的な目的である
博愛、献身、絶対的な癒し、
これらを持ち合わせる人というのは
往々にして
自らが表に出る事を嫌うからです。
誰の目にも止まらないその影で、
精神的な傷が癒える事を
常に深く祈っているのです。
言い換えれば、
自ら進んで表に出て
人に癒しを押し着せるものは、
はっきりと
偽物であると言えるのです。
どうかその目をごまかされないでください。
真の癒し手とは、
いついかなるときも
奥ゆかしく、そして謙虚です。
何故そう言えるのか。
答えは簡単です。
博愛、献身、絶対的な癒しの精神を
持つ人に足る人の条件は
奥ゆかしく謙虚な人であり、
また、そうした人こそ
博愛、献身、絶対的な癒しの精神を
持ち合わせているものなのです。
そして、そうであることは
何も特別な事ではないのです。
この世の摂理、倫理という観点で
こうした人間像を見た時、
そうした人間性を持ち合わせている事の方が
実に合理的で自然なのです。
つまり、
奥ゆかしく謙虚な人というのは
博愛、献身、癒しの精神をその心の宿し、
そうした心を宿した人こそ
ごくごく自然に、この世の摂理に即した
そんな生き方を選んだ
賢い人であるのです。
そして本来、人は
そうした賢い生き方を
選びとろうとするなら
いつでも、どこでも
心の底から決意さえする事が出来れば、
この世の摂理とともにある人に
なる事が出来るのです。
そこにはもう、
奢りや差別などと言う不必要なものは
存在しないのです。