『奇跡(Le miracle)』

Idée Visuelle
『奇跡(Le miracle)』
高らかな鐘の音と供に
天使が舞い降りる。
まばゆい光のカーテンに包まれ
神様がその姿を現す。
海がまっ二つに割れ
道が出来る
盲いた眼が
そこに光を取り戻す。
きっと人はそれらのどれもを
「奇跡」と呼ぶ事でしょう。
しかし、
それらは真の奇跡ではありません。
まして、
神の御技であろうはずが無いのです。
結論を先に言ってしまうのなら、
真の奇跡というのは、
『いつも変わらず、同じ平穏な日々を過ごせる』
という事なのです。
東より昇り出る太陽が
西の地平に帰る事。
風が雲を呼び、
雲が雨を誘う事。
冷たい川の水が
いつもと変わらずせせらぐ事。
そして今、
あなた自身が呼吸をして生きているという事。
これ以上の奇跡がどこにあるでしょう。
「奇跡」とは、
それらを然るべく調和たらしめる
摂理であり、真理であり、
そして意思なのです。
そもそも僕たちは
数億の精子のひとつと
ひとつの卵子が結びついて
生を受けた存在。
僕たちはこの世、この地に
生を受けた、そのはじまりから
すでに奇跡だったのです。
そのはじまりという奇跡が
今も続いて、
こうして呼吸をし生きている。
それは生命の
摂理であり真理であり、
そして意思なのです。
真の奇跡とは
「何の不都合も無く今、
ここに自分が在るという事」
生きていて不都合を感じているとするのなら、
それはただの幻想に過ぎません。
時に人のエゴは
自然の摂理を乱すような行いを
知らぬ間に犯してしまっていたりしますが、
自身が自然の摂理と供に在る、
そう心に誓った瞬間、
僕たちは、
ただ生きてここに存在することが
いかに奇跡的な事かを
思い知る事でしょう。
と同時に、
自身の身勝手なエゴの
言いなりになってしまうと、
もともとそこにあった
摂理、真理、意思のと調和を乱し、
その人の人生さえ
調和を失ってしまいます。
真の奇跡というのは、
まがまがしくも仰々しい
デモンストレーションではありません。
今、ここに座り
呼吸をし、
この文章を読んでいる
その瞬間こそが奇跡であるのです。
生まれたときから
雨風をしのげる家があり、
健やかでいられるだけの食事にありつけ、
身をまとう服さえ与えられてきた、
その結果としての「今」こそが
奇跡以外の何物でもないのです。
そう。
真の奇跡とは、
「何の不都合も無く、
今ここに在る事が出来る」
ただそれだけの事であり、
自身のエゴの言いなりにさえ
ならなければ、
いつまでも恒久的に
奇跡は連なってゆくものなのです。
それを難しく考え、
自我の欲求を乱し、
奇跡を奇異なるものと錯覚してしまうのは、
それだけ真の奇跡というものは
あちらこちら、
そこかしこに
あたりまえのように
偏在しているものであるからなのです。
この言葉を綴った僕という奇跡、
この言葉を読んだあなたという奇跡、
様々な奇跡が
人の人生の中で交錯して、
更なる奇跡を
気付かぬうちに紡ぎ出している事を
どうしても
思い出して欲しいのです。
そしてまた、
奇跡の産物であるあなたの行いも
本来、
奇跡の御技であるのです。
エゴの言いなりにさえ
ならないのならば・・・。
イデ・ヴィジュエル
『奇跡(Le miracle)」