悩み多きこの人生

Seven of Swords・・・
昨日の僕の記事も然り、
僕はどうも、
何事に対しても
まず「悩む」というところから入り、
そして常にこれでいいのか?と
自問自答を繰り返す、
そんな性格のようです。
これは多分、
僕が中学時代にいじめを受けていた
その経験から、
常に人の顔色をうかがうという
行動パターンが基となって、
何に対しても「悩み」、そして「考える」
そんな癖がついてしまったのではないかと
思うのです。
確かに、その思考パターンだけを
とってみれば、
とっても面倒くさく、根の暗い
キャラクターと言われて
片付けられてしまうかもしれませんが、
僕が、曲を作ったり
詞を書いたり、
ブログで哲学や理念を語るという、
「今の自分」であろうとした時、
その「思い悩む」思考パターン、性格
というものが、
実は非常に役立っているどころか、
そうした表現活動をするにあたって
必要なファクターになっているのではないか、
そんなふうに思えるのです。
実際、中学時代にいじめを受けていた事は
本当に辛かったです。
だけど、その「いじめ」を体験できたからこそ、
人を気遣い、
独自の哲学や理念を
語ることの出来るほどの
思慮深さを
手に入れる事が出来たのではないかと、
そう思えるのです。
結局のところ、
過去にどんなに辛い経験をしても、
どんなに楽しい経験をしても、
それらは全て、
「今の自分」を構成する礎として
どれも必要なカリキュラムだったのでしょう。
そして、今思い悩んでいる事も
今後の「僕」という個人を構成する
必要な学びのカリキュラムなのでしょう。
人は、「今、この瞬間」という
経験、体験が
幾層にも堆積した「今、この瞬間」の
上に足をつけ、立ちながら
生きる存在です。
だとしたら、
辛い事も、楽しい事も、
悲しい事も、嬉しい事も、
全ては「今、この瞬間」を下支えする
基礎であり、
「今、この瞬間」も
この先、未来にある「今、この瞬間」を
作り上げる、
構成要素なのではないかと、
そう考えられないでしょうか。
なぜなら、こうした「理念」に
至る事が出来た事も、
僕が中学時代に受けたいじめによって
形成された、
僕という人格の構成要素であるからです。
つまるところ、
「今、この瞬間」の自分を
肯定するという事は、
過去のあらゆる瞬間をも肯定できる事であり、
また、
これからやってくるであろう
未来のあらゆる瞬間さえも肯定できる、
そうした性質を
持つものなのではないでしょうか?
逆を言えば、
「今、この瞬間」を否定的に捉えると、
過去のどの瞬間も否定的な礎となり、
未来のどの瞬間さえも
否定的な「今、この瞬間」を
作り上げる要因になってしまうという事です。
人にとって時間とは、
母親の胎内から
這い出てきて「おぎゃー」と
泣いた瞬間から
その人の人生が始まるのではなく、
今、まさに今、
今この瞬間が人生の起点となって
過去にも、そして未来にも展開していく、
そんなものなのではないでしょうか?
つまり、
「今、この瞬間」を肯定し続ければ
過去も未来も含めた人生全てが
肯定できうる「あらゆる瞬間」に
する事が出来るのです。
今、この瞬間を肯定的に捉えれば、
過去も未来も、
すべてが肯定的なものに
上書きされていく、
それが人の人生という
ものなのではないでしょうか?