愛の非力

人間はこの先、
どれだけ学んだとしても
学んで、どれだけ
世の中が便利になろうとも、
決して賢くなることはないのだろうと思えます。

学び、進歩すればするほど、
渇望の度合いは増し、
苦しむ人もまた増えていくのでしょう。
心の葛藤の中に生き、
苦しむ人は減ることはないのです。

現に、
昔は食べるものに困って苦しむ人は
大勢いました。
やがて社会も技術も進歩して
平等(見かけだけですが)の世の中になり、
大量生産のできる技術を獲得し、
多くの富を手にすることができる世の中にあっても、
『それでも誰も苦しみから逃れるすべを知らない』
のです。

なぜか。

人は未だ、愛において非力だから。

ロマンティシズムや、
ヒューマニズムを説いているのではありません。

それでもなお、
人は完全に愛に対して貧しいと
言わざるを得ないのでしょう。

この部分が進歩しなくては、
どれだけ物理的なあらゆるものが
進歩したところで、
傾き、偏って、最終的には倒れ、
瓦解していくのであろうことは明白です。

本来、
『愛という要素は全能に通じる』
ものであるはずなのに、
愛を「もの」に置き換えてしまうから、
現在においても、あるいは
過去や未来に至るそれにおいても
愛は繋がれないのです。

と同時に、
この部分を無価値として
実利のあるものばかりを求めるから、
新しい命を受け入れ、
育てる場所が
どんどん狭くなり、痩せていくのでしょう。

愛とは、
全てが栄えゆくことです。

そこに対して
人間はあまりに無知であるから
日を追うごとに
人という現象そのものが
枯れていくのです。