戦うな。闘え。

「戦う」ことと
「闘う」ことは、
その意味合いとしては
大きく違うのだと思うのです。

人(の精神)とは、
常に何かしらの二元論の
『せめぎ合い』の中を生きています。
しかし
「自己という認識」であるところの
「精神の実像」とは
その「二元性の統合の状態」あるいは
「統合の結果」であるのでしょう。

「二元性の世界観」を揺れるということは、
すなわち
「自己という認識」は
常に不確定なものであることであって、
これを一つ一つ
確定させては、解体するという
繰り返しの中で、
人は少しずつなりに賢くなっていくのです。

これは「闘い」です。
換言するなら、
葛藤であり、模索であり、学びや鍛錬なのです。

故に、
人はより良く在ろうとするなら
常に「闘い」は
ついてまわるものなのだと思えます。
そしてその「闘い」の視座は
「二元論と自己の視座」という
三つの点、極性を包括する
絶対的な一つの点の中にあるのです。

一方、
ここで言うところの
「闘い」ではなく「戦い」とは、
二元論のどちらかに偏った
「せめぎ合いの渦そのもの」と言えると思います。
常に逆の指向性のものとは相容れず、
やがては相克のうちに相殺されてしまう結果を伴う
力学としての因果律の世界にあるものであって、
この「戦い」の概念は
同化を目的とする征服や支配であるのです。

故に、冒頭で述べた
「人は二元論のせめぎ合いの中を生きる」
と言うことは、
「闘い」ではなく「戦う」ことを指すもので、
ごく普通の「人の精神世界」の
ステージであるとも言えるかもしれません。

少なくとも、
白か黒かの二元論の世界から脱却するには
「二元論のせめぎ合い」の
外側に出る必要があります。
そして、その外側に出るには
「戦う」ことをやめなければならない。

今の殺伐とした時代において、
ここまでは多くの人が
気付いていることなのでしょうが、
「戦う」ことと「闘う」ことを混同して
どれも捨ててしまおうとするから、
人は心身ともに劣化していくのだと思えるのです。

ならば逆に、生きる力を維持するためにと
「闘おう」とすると
混同して「戦うこと」まで強いてしまうのです。

そして、「戦う」ことと「闘う」ことの
違いを模索していく中で
「二元論」はせめぎ合い、
「三元論的」な世界観はまた
近づきも、遠ざかりもするのです。

それでも「戦いの渦」の外へ抜け出ようとすることは
「闘い」と言えるでしょう。

重力に逆らって
上り坂を登っていくことは
「闘い」であり、
高みに向かうには必要なものですが、
重力の呪縛を憎む「戦い」には
全く意味はないし、
重力に負けて坂を下りていくとき、
そこには「闘いをやめた」自分がいることでしょう。

そして、「闘いをやめた」ことを
敗者と呼ぶことで、
再び二元性の渦の中へと飲み込まれて、
また「戦い」のある世界へ戻っていくのです。

戦うな。闘え。
「戦うこと」と「闘うこと」を
常に吟味する、その時その場所に
絶対性の片鱗を垣間見せる
「自己の存在」があるのですから。