管理するから弱る

SF小説などのシナリオに
ありがちな舞台設定として、
人間世界の終末期を光景を
極限まで管理された社会として
描かれるものが、割とありふれて
あるように思えます。

こういうシナリオ自体は、
間違いなく「フィクション」であり
「絵空事」ではあるのですが、
徹底的に均質に管理される先が
破滅であることは
強ち真理であるのかもしれないとも思えます。

そもそも、あらゆる物事というのは、
時や時代を重ねて
「より良くなっていく」
あるいは
「より栄えていく」
ことによって、
永続的に存在し続けられ得るのだから。

昨日より、今日が良くなれば
それは「存在した証」となりえますが、
その今日が悪ければ、
いやそれどころか「同じ」であっても
それは「衰退」なのです。

人間の認識しうる「1日の感覚」では
その影響はほんの微々たるものかもしれませんが、
100年、200年、1000年単位で考えるなら、
それこそ民族、あるいは人類そのものの
盛衰という潮流の影響下にある話でもあると
言えるのかもしれません。

そもそも「この世」というものは
『必ず間違いが起こる』世界なのです。
そして、その間違いを正すことが
「良くなる」ことなのですから。

おそらく、それ故に
「管理社会」というものは生まれるのでしょうが、
叡智が「間違い」を完全にコントロールし、
駆逐してしまえるようになること、
つまりは、
「間違い」を事前に摘み取ってしまうことは、
管理社会を生きる全ての人を衰退させていくのだと思えます。

その理由の結論を先に言ってしまえば、
『間違わないから良くなれない』のです。

以前、記事にもしたことではあるのですが
「間違う」というワイルドカードがあるから
物事は多様性や可能性を獲得し、
栄えることができるのです。

「間違えられない」ということは
「多様性を獲得できない」ことであり、
そういう社会を生きるということは
新しい船を作り乗り換えることをせず、
ただ既存の船の中で、
一緒に腐って沈んでいくようなものなのです。

壊れていく船の中で、
新しい船を作り乗り換える案だけは
ことごとく無視され続けます。
なぜなら、この船の中のルールにおいては、
既存の船そのものが「正解」であり、
置き換わる何かは「間違い」であり、
そして「多様性は悪」だからです。

冒頭の「ありがちなSFのシナリオ」に話を戻すと、
間違えることを知らない人たちの住む社会が
弱々しく逼塞したものである理由も頷けます。

監視しあい、管理しあう世界にあって
「生命」は拡張できないのです。

生命本来の発する波の力は
極限まで弱められ、
まるで冷凍庫の中で冬眠しているかのように生き、
あるいは、そのまま目覚めることなく
「無」であれと啓蒙し、
弱体化していくこと以外の生き方を
全て間違いと断じて排除する世界に、
少なくとももう、
生命の入るこむ余地はないでしょう。

シナリオを書く人は、
そういう状況を
フィクションの中でシミュレートしていった先に、
人間社会の終末が見えたのではないかと思えます。