言葉と世界

昨日は
「言葉は心の写したもの」
という趣旨の話をしました。

そこからさらに突き詰めてみるに、
最近は画像や動画も多いとは言っても、
未だ基本、文字情報が主体である
ネットというところは、
完全に心の世界が描き出した世界であると
言えるのでしょう。

実生活における
社会的立場上の制約の影響を
あまり受けない(ようにしている)ために、
一切の建前が必要でなくなり、
その上、時には理性の抑止さえ
無力になるネットの世界では、
完全に「心が剥き出しになる」と言えるのだと思います。

それこそ、
普段は抑圧されて
自分でも気がついていない、
本当の自分がぽろっと
露わになってしまうのでしょう。

ネット上に置いたのは
自分のかりそめの分身だったはずなのに、
そのネット上の存在こそが
最もありのままの「自分の本体」と
なってしまった人たちというのは
実は非常に多いのだろうと思えます。

ネット草創期には、
こういう世界は「仮想現実」と呼ばれ、
実生活とは無関係の別世界と定義されてきました。
それから20年ほど過ぎて、
これを「仮想現実」と呼ぶ人など誰もいなくなり、
ネットの世界は現実の一部、あるいは全てと
なっていることは、
「自分という主体」が
ネットの世界、つまりは
サーバというコンピュータの中に
入り込んでしまっているのです。

ネット上の閲覧の記録、
買い物や支払いの記録、
あるいは居場所まで、
生活のほとんどが
コンピュータの中の記録や履歴から
割り出されてしまう世界というのは、
コンピュータの中の住人であるということと
意味としては、なんの違いもないのです。

この本質化したネットの世界では
実生活の具体的な行動に加えて、
「心の質」によって
心の似た者同士が
階層になって集まっているのが
俯瞰してよく伺い知ることができます。

そして、
階層化させるものというのが
「言葉」であり、
「言葉の使い方」によって「心たち」は
同種のコロニーを形成しているのです。

そこが「自分の主体」がある世界。

画面を通して
『いつでも見たい時に、見たいものを観られる』けれど、
言葉の使い方が変わらない限り、
そこのコロニーからは「抜け出ることはしない」世界なのです。

抽象的な説明になってしまいましたが、
これが分かるのであれば、
人間の現実世界でも
同じような力学が働いて形成されていることが
理解できるのではないでしょうか。

ネットのページのように
見たい時に見たいものが観られないのは、
現実世界では、ネットの世界のように
『無我で、かつ、ありのままでいられないから』
に過ぎないのです。

オンライン、オフラインの差は、
浄土と穢土との違いのようなものなのです。

そして、
悪い言葉の蔓延する
ネットの世界(つまりオンライン)は
やがて、それも遠くない未来に
崩壊して、何もかも無くなるかもしれません。
なぜなら、
人はネット上に地獄を作ったのだから。
奪い合い、傷つけ合う世界に
好き好んで没入していく人などいないでしょうから。

もしネットの世界が崩壊した時は、
サーバの中に
「自分の本質」を置いていた人たちにとって、
それこそ世界滅亡にも似た惨劇と感じるかもしれません。

そもそもネット上の世界など、
上述したように
コンピュータの中の「仮想空間」で
情報を共有している「あくまで道具」なのであって、
夢幻しの世界なのです。
ネット上で起こることは
あっという間にネット上で収束していく。
それほどに意味のない世界なのです。

人という存在は
こんなサーバの中の電気信号として
閉じこもっている存在ではないのです。

『ネットの世界は現実世界、社会の模型』なのです。
実生活では見えてこない
心の次元まで展開することができる模型なのです。

そして人の本質はもっと上のところにあるのです。

現実の世界もまた同じ。
人の本質はもっと上のところにある。
使う言葉に見合った場所にあるのだと思います。

雛形は常に、どこから見ても
上からやってきて
下に形作られるものなのです。