To be or not to be

『生きるべきか, 死ぬべきか, それが問題だ』

かの有名なシェイクスピアの戯曲「ハムレット」からの
さらに有名な台詞です。

この名台詞自体、少なくとも日本では
一人歩きをしている感があって、
一般的な日本でのこの台詞の印象といえば、
台詞の言葉通りの、
これを言ったハムレットはもう死んでしまうのだろうか?
というものなのではないでしょうか。

実際は、
ハムレット(王子)が
両親を殺し、王位を奪った叔父を
復讐してやろうか、やめておこうか、どうしよう?
と迷っているシチュエーションでの言葉であって、
まあ、そこにはハムレット自身、
刺し違えてでも復讐をすべきかという
苦悩も含まれているであろうところから
「生きるべきか〜」という
日本語訳が定着したのかなと思います。(憶測です・・・)

まあ、いずれにしろ
「生きるべきか、死ぬべきか」と悩む心情は
やはりそれなりに深刻な選択に対峙しているのでしょう。

けれど思うに、
人の人生でつきあたたる「迷い」というものは、
突き詰めてしまえば、
あらゆるどれもが
「生きるべきか、死ぬべきか」の
選択の連続であるのかもしれないとも思ったりします。

この名台詞になぞらえて
生死という概念に重ねることに違和感を感じるのであれば、
原文の英語の直訳のままに
「在るべきか、在らざるべきか」という
といに置き換えてもいいかもしれない。

今という現実は
人の、その生きてきた長さの分に
比例するだけの量の
「to be(在るべき)」を選択した
結果がただただそこに在るのみであって、
その結果であるところの現実の実像というものは
膨大な「not to be(在らざるべきもの)」を
削ぎ落とし、分離して、
残された一点の肯定であるというところに
集約されていくものであるのでしょう。

「今この瞬間」の持つ
いわば「肯定力」というものは、
生命的、宇宙的規模の強さであると言っても
過言ではないほどに。

たとえ今、
「生きるべきか、死ぬべきか」と
思い悩んだとしても、
時間の流れは、結果的にほぼ強制的に
「to be」であることを
人に強いるものなのです。
というか、
今、この瞬間に「自分という存在を認識できる限り」
それは自発的に「to be」を選択している状態にあるのです。

見たくないもの、聞きたくないもの、
経験したくないこと、
棚上げにしておきたいこと、
そんなものたちも結局は
ありのまま、そのまま
見たくないもの、聞きたくないもの、
経験したくないことや
棚上げしたいことのまま、
今、ここで自分が「to be」を選んでいる結果なのです。
否定的な事柄は否定的なそれとして
今、ここで「to be(肯定)」してるわけです。

故に、この世界には
「肯定されたものしか存在しない」のです。
自分という認識がある限り
『永遠に肯定は付いて回る』のです。
むしろ否定して切り離すことの方が
簡単であるのかもしれませんが、
否定を否定して否定できないのだから、
言うほど否定は簡単ではない。

そこでやはりハムレットは悩んだのでしょう。

復讐の実行に悩むハムレットの悩みと、
俗人の思う、
今日の晩御飯は
ラーメンにすべきかカレーにするべきか?
と言う悩みは、
単にシチュエーションが違うだけで、
その悩みの構造自体、
さらには、常に何かを選択して(あるいは選択せず)
生きていくという人生自体の構造としては、
なんら変わるところはないのではないかと思えるのです。