創造の基本

「アナタハ神ヲ信ジマスカ?」
と問われたところで、
そもそも「神」という定義というものは、
個々人の想像の産物であるがゆえに
『客観的な何かではない』主体なのだから、
その存在を「客観的かつ絶対的な何か」と
置き換えてしまう時点で、
その本質から離れてしまうわけで、
それを外的に信じようが信じまいが、
それは知ったことではないのでしょう。

事実、無信仰の先進国の人たちにとって
「神」という存在はおそらく
往々にしてそのようなものなのではないかと考えています。

つまり、
神を信仰しようが、
またはその存在を否定しようが、
それは個人の自由であるというのが
多くの現代人の考え方なのではないかということ。

いつしかこうして、
「神無き人生体験」という選択が生まれたのでしょうが、
人は決して「神」あるいは信仰を
卒業したわけではなかったのです。

「神」に変わるものとして、
富や科学、あるい社会的ステータスといった
より物質的なものに
信仰の対象が移り、
信仰どころか、依存してしまう社会になってしまいました。

そしてそれは、
個人が想像しうる神や信仰による恵みを
感知しうる感覚を捨て、
物質的な利得を直接的に得られるものしか
感得できなくなった、
人間の精神の退化をもたらしたのだと思えます。

ここで「存在としては懐疑であるはずの神」の
存在の有無の違いが
はっきりと現れてくるのではないでしょうか。

「神」の概念を捨てた人は
より物質的な利得こそが
豊かさだと思っている人たちでもあります。
こう言い切ると極論のようの感じますが、
「神」も含めた空想や想像という、いわば形而上の事柄は
(物質的な)何をも得られないし、
その不足を埋めるのもまた物質的なものである、
そう考える人たちです。

想像することは幸福をもたらすことがないのであれば、
当然、「神」も不要であるし、
ゆえにそれを捨てることもできる。

難しい言い方のようの思えるかもしれませんが、
至極単純に、これは
先進国を生きる現代人の価値観のことなのです。

個人の信条はともかくとして、
少なくとも、
「人」という集団の作り出した社会の制度の上では
形而上の事柄は「無益」どころか
「没落」の種であるとさえ説きます。

けれど本当は違う。

本来、「人の想像力、創造力」のあるところに
幸福と豊かさがあったはずなのです。

想像力というのは、
「神さまを思い浮かべてごらん」と言われて
心に描き出すことのできる
創造力のことです。

細かいディテールなどどうでも良くて、
無限かつ絶対の創造力を持つ存在、
それこそ天地がひっくり返っても
それ自体はひっくり返らないような、
そういう絶対的な概念。

そんな、ある意味わかりやすく
思い浮かべやすい
「神さま」さえ思い浮かべるのが難しいのであれば、
おそらく、
『自分の意思で人生を生きることさえ難しい』はずです。

それほどに、
人の「創造力」というものは大きい。

存在するのかとか、
それが何をもたらすのかとか、
そのようなことは問題ではなく、
ただただ
自分の中に作り出したそれを
どこまで信じ抜くことができるか。
あるいは、
どこまで捨て去ることができるのか。

それが自律的な生き方の基本であり、
それこそ「神」のようなわかりやすい概念くらいは
自分の心の中に想像することができないと、
物質的な社会体制に
物で釣られて受動的な生き方しか
できなくなるのように思えるのです。

ゆえに、
神(もしくは、それに準ずるもの)を
想像することは、
創造の基本なのです。