言葉は心

僕自身、記事の中で書く文章に関しては
できるだけフォーマルな文体を
心がけて書いていますが、
正直なところ、
TPOをわきまえつつも
普段から綺麗な言葉を使っているかといえば、
恥ずかしながら、そんなことはないです。
ちょっと前の「ギャル語」のような感じほど
酷くはないですが(笑)、
まあ、常識的に
今の時代では普通の言葉。

なのでこういうことを
言えた立場ではないのでしょうが、
それでもやはり思うのは、
『言葉の乱れは心の乱れ』だなということ。
言葉の使い方は「話し方」とも
言えるのだろうと思いますが、
これは完全にメンタリティによって違うし、
そのメンタリティ相応の言葉を使うものだと思えます。

『言葉から心が透けて見える』

逆に言えば、
言葉から心が透けて見えるものだから、
心を閉ざした人は往々にして
ぎこちない話し方をするし、
見透かされないように
方言(のある地域なら)ではなく
標準語で喋ってみたり、
妙に芝居じみていたりとか、等々。

閉ざして心は見えないかもしれないけれど、
少なくとも
心を閉ざしている様までは隠せないものなのです。

このように、いずれにしろ、
「どう言葉を使っているか」は
そのまま
「どのような心なのか」を
映し出しているものだったりするのです。

心は乱れると、
言葉を通して別の心に
乱れを伝播させます。
そして心の集合である社会も
それに比例して乱れていくのです。

考えてみれば、
『まともな人は、普段からまともな言葉で話す』ものです。

そしておそらく、
最も下品な言葉で話す人たちと
最も上品な言葉を使う人とでは、
せいぜい物理的な状況を共有する以外、
それこそ内的な意思のようなものは
全く共有できないし、
疎通もできないのだろうと思えます。

言葉というものは
多くの人が思っている以上に
内的なレベルの力学によるところが
大きいのだと思えるのです。