歌えるやつは歌え。踊れるやつは踊れ。

音楽に限ったことではないのでしょうが、
今の時代、誰でもアーティストになれるのだと思います。

一昔前であれば
技術的、あるいはセンスの部分で
足らない部分があって
敵わなかったことも、
今では、それをサポートするための
「テクノロジー」が数多あって、
それらを「流用」すれば
誰でも簡単に作品は作れてしまうのです。
質さえ問わなければ。

これは別に
皮肉や嫌味で言っているわけではなく純粋に、
『誰もが内にあるものを表現できる時代』
であることの証だと思えます。
それだけ「外的な抑圧の影響」が
弱くなってきていることの証でもあると言えるのです。

別に陰謀論を唱える気はありませんが、
世の中には、
世情や世論を煽って
民衆の思想や好みを特定のものに向けさせることで
特をしている立場の人がいることは
理解できるでしょうか。
彼らの「これが良い」だとか「こうすべき」だとか
こういうものが
「外的抑圧」の根になって、
「自由な表現者である選択」を阻んでいたのです。

考えてみれば、今から30年、40年も前というのは
例えば音楽であれば
その演者というものは
テレビやラジオの向こう側の人であり、
老若男女がその存在を共有する存在でした。
これは古き良き時代の風景なのでしょうが、
実は民衆の好みや思想が
画一的にコントロールされていた証でもあるのです。

そう。
「観ることの価値」はどんどん下り、
逆に、今まで見ていただけのそれを
「やることの価値」は
切実に上がり続けているのが現代なのです。

ここで、自由にやられて黙っていないのが
「外的抑圧」です。

「外的抑圧」は
何が何でも自由をコントロールして操作し、
人を、「外的抑圧」の提唱するところの
果たして実在するのかさえ分からない
「理想のパーソナリティ」の中へ
押し込めようとするのです。
そして、その中へ入れない人間は
徹底的にその存在を否定します。

事実、今の時代というのは、
30年以上前であれば
普通に統制が取れていた物事が
コントロールできなくなってきています。
そういう時代だから余計に
社会はどんどん、人を監視するようになっていくのです。

「純粋に清い自由である人」は、
紛れ込んだ一部の
悪い自由人と十把一絡げにされて、
「自由は悪である」という論理を
「外的抑圧」に説き伏せられてしまうことの
恐ろしさが分かるでしょうか。
「外的抑圧」は
自由さえも取り込んで
画一的な管理をしようとするのです。

『歌ったり踊ったりというのは
外的抑圧の庭の内側でやれ』
と。

それでも
「内なるもの表現」を外へ表現する行為は
「外的抑圧」の外側で為してこそ
意味があるのです。
「外的抑圧」の外側へ
表現を出力してこそ意味があるのです。

表現というものは
「外的抑圧」の影響下で生きられないものだから。

利口になることと、
生命力を削ることは
似て非なるものがあります。
「外的抑圧」に
生命力を引き渡してはなりません。
生命力は自分自身で使わなくてなならないのです。

もう、先の事など考える必要はありません。

歌えるやつは、歌え。
踊れるやつは、踊れ。
楽器を弾くやつは、楽器を弾け。
生き永らえようと思うな。
今を最後と思って生きろ。
質を問うのは
「外的抑圧」のすることだ。耳を貸すな。
ただ、自分の中の想いの純度さえ
研ぎ澄ませていけばそれでいい。

こういう生き方を誰もがするようになると
世の中、上下が逆さまになるくらいの
力を秘めたことなので、
それでは「外的抑圧」は崩壊してしまうから、
そうさせないように
抑圧下の住人は躍起になります。

けれど、これを壊してでも
魂の外に出たがっているものがあることに
気づいたなら、
無駄な生き方はできないと思うのですが。