反省のススメ

人間やはり、
反省することというのは
非常に大切であるような気がします。

それも、たまに反省するとかいう
生半可なものではなく、
理想としてはそれこそ、
毎晩、寝る前に
その日、一日の反省ができるくらいに。

そうは言っても多分おそらく、
人は謙虚であることと同様に
また傲慢であっても
何かしらの
特技であったり知識であったり、
そして富であったり、
そういうものは、
いくらでも獲得し、身につけることは
できるのだとは思います。
それなら、それで
一応、見かけ上の世界は何とか
保つことはできていくのかもしれません。

だとすれば、
人にとって謙虚はというものは
無意味でしかない。

けれど、過ちや間違いを正すことができるのは
謙虚な心によってのみなのも確かだと思うのです。

わかりやすく喩えるなら、
パソコンやスマホのOSのバグに対して、
そのバグがないか常に点検し整備することは
「謙虚」に属することで、
バグを放置したり、見つけようとせず、
まして使う人の使い方が悪いと、
自らの欠点を人のせいにするのは
「傲慢」に属するものである、
ということ。

それはともかくとして、
あえて断言するなら、
『人の真価は反省の量で決まる』
と言っていいでしょう。

冒頭で述べたように、
それこそ
一日の終わりに今日の反省を日課にする人と、
最近、最後にいつ反省しただろう?と
平気で言って、それを恥とも思わない人とでは、
10年、いや、20年後には
おそらく、別の人種、別の生き物になっているはずです。

では、どう変わっていくのか。

(極論として)
「反省をしない傲慢な人」と
「反省をする謙虚な人」とでは、
はじめに調子がいいのは
反省しない人の方なのだろうと感じます。

何でも強欲に、エゴイスティックに
上り詰めていく力は、
物質的なあらゆるものを
吸い上げていくことができると思います。
極限的にはおそらく、最も強いでしょうが、
「そこでしか手にすることができない世界」を
生きていくことになるでしょう。

一方で、内省する人は
はじめは「自分の愚かさ、力のなさ」に
打ちひしがれて、自己評価は崩壊し、
動けなくなってしまうかもしれません。
けれど、そういう
ぼろぼろになった自我の評価に耐えていくうちに、
人の「真の強さや、真の正しさ」とは何なのかを
知る人へと成長しているはずです。
「反省しない人」には見えない世界に
大きな城を建てているかもしれません。

今の時代のこの世界というのは思うに、
「反省をしてこなかった人」によって
築かれた世界のような気がします。
(重ね重ね極論ですが)
この世界に
『深い内省は不要だから』
です。

むしろ、エゴイスティックに
がつがつと、そしてガサツに
世界と接する方が得だし、楽でもある。
だから誰しもが「内省」を忘れ
あるいは「謙虚さ」を忘れてゆくのです。

ここで今一度、上述の
パソコンやスマホのバグの喩えを
読み返して欲しいのです。

この世界はどこまで、いつまで、
重篤なバグを放置しておくつもりなのでしょうか。
というか、そもそも、
そういうバグの存在を知りつつ、
それを指摘することのできる人たちは
どれだけいるのだろうか、と。

バグに気づかないのも、
その存在を知りつつも指摘しないのも、
まして、それを人のせいにして
丸投げしてしまうのも、
全て『人類のエゴ』なのです。

もう今更、遅いのかもしれませんが
反省しよう。

今日したことの反省を。
去年してきたことの反省を。
今まで生きてきたことの反省を。
反省して、何が悪かったのか
目を背けず、棚上げにすることなく
考えてみよう。

それをしてこなかった結果の世界が
もうここにはあって、
この世界は、割と本当に
もう駄目かもれない。
そうした奔流を止めようとする人がいないから。

けれど、
謙虚に内省を日々繰り返す勇気があるのなら、
未来があるのかどうか、
それどころか生きているのかどうかもわからない
10年、20年先の世界のために、
毎日、反省をし続けるのも悪くはないかもしれません。

人類の真価は、いかに反省するかにかかっているのです。

特に今の時代。