「蓋」幸福論

明日に何も持たず、
昨日は昨日に置いていく。
それは人生の蓋のこと。

何も持たないことは
おそらく、人として
最もシンプルで
幸福なことなのではないかと思えます。

なぜなら、
人を一喜一憂させ、
常に悩ましくさせるのは、
「持っている」あるいは「持ちたい」
という想いに他ならないのだから。

昨日のことは忘れて、
明日に何の期待もしないだけで、
人生の九割がたの苦悩は
解放されるような気がします。

けれど、これが難しいことは
誰もが知るところです。

社会と関わり、仕事を持ち、
家庭を持ち、あるいは子どもを持ち、と、
(悪いものではないのですが)持つものが
増えるほどに、
半ば幻想でもあるような九割がたの苦悩を、
たとえ「それを苦悩と捉えていないにしろ」
抱えてしまうことになるのだから。

持つことの幸福の存在は疑うものではありません。
確かにそれは人並みに確かに存在する幸福です。

しかし、「不変であるところの真の幸福」という
観点から見れば、
持つことによって生じた「欠落」を
補うため、塞ぐために
『別のところから得てきた幸福』であって、
この「蓋」として機能する幸福というものは
時とともに移ろい、姿を変え、
時には無くしてしまうものでもあるのです。
こうして人は、その人生のほとんどを
消耗品であるところの「蓋」を
探し、得ることに費やすのです。

そして、その本質は
「常に満ちていない」のです。

つまり、
過去にも、あるいは未来にも、
何かを持つということは、
『今の欠落を埋める蓋を<この瞬間>に持つ』
こととも言えるにではないかと思えます。

蓋をするから
自分が見えなくなるし、
常に「蓋に依存した」人生が必要となってくるのです。
蓋を乗せれば、重さを感じるのは当然です。

「蓋の無い生き方」があるとすれば、
それは過去にも未来にも、何も持たない
生き方なのではないかと思えます。
何を持たない幸福は、
何かを持とうとしたり、得たりしない限り
永遠に続くのです。

とは言っても、
実際の生活の中でこうしたことというのは、
絵に描いた餅に過ぎないでしょうし、
現実的に守るもののある立場の人にとっては
直接的に考えてしまうと、毒でしかないはずです。

現実の生活では、
ほぼ全てのことは
「蓋に依存して」成り立ってしまって、
それによって生かされているわけなのですが、
同時にその「使い捨ての蓋」を
追いかけさせられて、
皆がそれに群がることによって
世の中がに日に日に逼塞していっているのも
事実だと思うのです。

この先、世の中がどうなっていくかは分かりません。
けれど、このままだと
大局的には、良くなることはない。

明日にも昨日にも
何も持たないように努めないと、
皆、蓋の重みに潰されてしまうような気がします。

それ故に、本当は
蓋は開けられるべきであるように思えるのです。